【受難節第3主日】
礼拝説教「土台の石」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 12:1-12
<讃美歌>
(21)25,16,132,303,65-1,28
マルコによる福音書が書かれた当時は、どのように福音書を手にして御言葉を聞き取ったのかと思いめぐらします。手から手へと大切に回覧された福音書を、丁寧に書き写して次の教会へと渡していったと思われます。文字の読み書きができる人は多くはなかったのです。朗読される福音書を、全身で思いを傾けて聞き取ったのです。自分達を生かす神の命の御言葉を聞き取っていったはずです。自分達を生かす神の命の御言葉を聞き取っていく恵みは、代々に渡って受け継がれて今に至っているのです。私どもも、同じ恵みにあずかっているのです。
与えられています箇所の11節に「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」とあります。マルコの教会の人々は「主がなさったこと」と聞いたとき、どのように「主がなさったこと」を聞きとったのでしょうか。
「わたしたちの目には不思議に見える」というのは、主がなさったことは、およそ人の思いを超えた神様の出来事であるということです。人の思いを超えているということは、主なる神が働きかけてくださらなければ、決して信じることはできないということです。マルコの教会は、聖書の御言葉と共に聖霊が働いてくださる恵みにあずかりました。そして信じて従っていったのです。私どもも御言葉に伴う聖霊のお働きによって、「主がなさったこと」を聞き取り、その恵みに生かされていきましょう。
ここには主イエスが語られた、たとえが記されています。ぶどう園の主人とその農夫たちです。主イエス・キリストがたとえを話されるときには、そこに御自分のことを語りかけておられます。あるいはまた、父なる神のことをたとえで話されているのです。
あるぶどう園の主人と農夫のたとえを聞いて、どう思われたでしょうか。この主人は、あまりにも心が広すぎるように思えてしまいます。明らかに、父なる神のことを主イエスはたとえで話そうとされるのです。「主がなさったこと」はこのようなことだということです。
たとえの主人は、次々にしもべたちを送り込みます。しかし、農夫たちは収穫を自分達のものにして渡そうとしない。そればかりか、侮辱したり、殴ったり、ついには殺してしまったりしたのです。実際の私どもであれば、何回もしもべを遣わすことにはならないと思います。最初に、しもべを送り込んで、侮辱して帰されたところで話は終わってしまうはずです。
しかしさらに驚くべきことは、この主人は、愛する息子を遣わそうとする。息子とは、明らかに神の独り子である主イエス・キリストのことであります。そして、たとえの中で、農夫たちは、その息子を殺してしまうのです。そうしますと、ぶどう園の主人は、息子を殺した農夫たちを殺し、他の人たちにぶどう園を与えるに違いない、とあります。
このたとえの息子は、先ほど言いましたように、主イエスのことです。主イエスは、御自分に敵意を抱いて近づく者に、このたとえを話されました。話された意図はどこにあったのでしょうか。たとえの中にあるように、ぶどう園の主人が、息子を殺した農夫たちを殺し、他の人たちにぶどう園を与えるに違いない、そのことが現実となることを伝えようとされたのでしょうか。確かに主イエスは、神の独り子として、私どもの救いのために命を献げる覚悟をもってこのたとえを話されたのです。しかし、たとえの結論と言うべきことを、主イエスは自ら引き受けられようとしているのです。どういうことでしょうか。
それは、たとえの中でぶどう園の主人が、息子を殺した農夫たちを殺し、他の人たちにぶどう園を与えるに違いないその罪の裁きを、主イエスがご自身の身に引き受けて、救いの道を切り開こうとなさっているということです。
主イエス・キリストがたとえを話されるときには、そのたとえの続きと言えることをも引き受けようとなさって語りかけられるのです。当然裁かれるべき農夫たちの罪、すなわち私どもの罪を、主イエスご自身が引き受けられたことを語りかけてくださっているのです。
主イエスは、ご自身に敵対して命を奪う者をも愛して、その者たちのためにも救いの道を備えようとなさっていることを、たとえで話されたのです。ですから、聞いていた当時の指導者たちが「自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと」感じたようですが、実際には主イエスの意図はもっと深いものであったのです。主イエスは、あなた方は私を殺そうとして実際に十字架に命を奪うけれども、そのあなた方のためにも私は赦しの道、救いを成し遂げようとしている、と神の愛によって語りかけてくださっているのです。ですから神の愛は、私どもの思いをはるかに超えているのです。
さて、このたとえの農園は、収穫が約束された、豊かに備えられた農園です。与えられた収穫の一部をお返しするのは当然ですが、それができない農夫たちの姿があります。ある説教者は、備えられた農園に、私どもの命を重ねて、私どもの命もまたそうではないか、と語っています。生きているようで、生かされている。与えられたいのちの恵みを生きていることを忘れてはならないのです。
当時の教会のキリスト者も、この農夫たちの姿によって、何か自分たちがすべて獲得したかのように錯覚する愚かさや罪深さを照らされたのではないかと思います。そして、本来は裁かれるべき自分たちに代わって、主イエスが命を十字架の上に献げてくださったことに、いつも感謝をささげて生きていったはずです。その礼拝の心が受け継がれて、今に至っているのです。私どもも、自分たちがすべて獲得したかのように錯覚する愚かさや罪深さを告白して、神様へと向き直っていきましょう。
いま、教会の暦では、レントと言って、主イエスの十字架のご受難を思いめぐらして感謝するときを過ごしています。本来は裁かれるべき私どもに代わって、主イエスが命を十字架の上に献げてくださったことに、いつも感謝をささげていきましょう。
「主がなさったこと」それは、主イエスが私どもの救い主になってくださったことです。主イエスは、私どもには理解しがたい、深く限りない憐れみをもって、今もなお招いてくださっているのです。
主がなさったことの不思議さが、家を建てることにたとえられて、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」(10)とあります。どういうことがたとえられているのでしょうか。当時、家は普通、石で建てたようです。家を建てる者は、前もって石を削って成形して、あとで組み上げていくのですが、ある者が、削ることができない固い石を捨ててしまうのです。
しかし、石を組み上げて家を建てようとするときに、土台の石が必要なのですが、そのとき、固くて捨ててしまった石を思い出して、それを土台の石に据えたというのです。そのことが、主イエス・キリストの十字架の救いにたとえられています。
人々が十字架へと追いやり捨ててしまった主イエスが、私どもの土台の石となって、救いを成し遂げ、その救いを伝える教会の土台の石となってくださったのです。それは、人の目には、まことに不思議でとらえきれないことですが、主がなさったことであるのです。
主がなさったことが、私どもの歩みを支えています。これからも、主がご自身の体である教会を守り支えてくださるのです。土台がすでに主によって据えられて、主イエスと共に建て上げられていることを信じていきましょう。支えてくださる主に信頼しながら、共に祈り励んでまいりましょう。
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