【受難節第2主日】
礼拝説教「天からのもの」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 11:27-33
<讃美歌>
(21)25,19,57,300,65-1,28
ある牧師から聞いたことですが、アメリカに行って説教した後に、言われてとても困ることがあるというのです。それは、「Thank you I enjoy it」それは、直訳しますと、「感謝します。とても楽しませてもらいました。」その牧師は、説教を楽しませてもらった、と聞いて、当惑するというのです。主イエスの命が注がれている御言葉を、説教者もまた自分の存在をかけて語ります。私どもが礼拝においていつも主に求めているのは、主なる神が働きかけてくださって、御言葉に養われて生きていきたいということです。むしろ、私どもが願うよりも先に、主なる神ご自身が、天からの恵みに生かそうと働きかけてくださっているのです。
アメリカの教会には、Sermon Taster(説教の試食家)という言葉があるそうです。これは悲しい現実ですが、ひたすら説教を楽しんでいることで終わっているということです。そればかりか、いろいろな教会を回って、牧師達の説教を試食するように吟味して批評する。批評家になってしまっているとも言えます。批評はするけれども。決して御言葉に養われて命の糧をいただくことがない。楽しむだけで悔い改めることがないのです。
私どもが何のために聖書の御言葉から共に聞くかと言えば、御言葉を聞いて悔い改めるためです。悔い改めるというのは、聖書では、神の方へとむき直るという意味です。私どもを愛してくださっている、主なる神へと向き直り、神の語りかけに聞き従うように祈り求めていくのです。聖書の御言葉を通して、私どもになくてならない命の糧が与えられるときに、私どもが、それを批評する立場、試食する立場では聞き取れないはずです。
神へと向き直る思いが与えられることは、主なる神の働きでもありますが、そのときに、聖なる神の御前に、ひれ伏すような思いを忘れないようにする必要があります。神の言葉、主イエスの福音を聞くには相応しくないけれども、神が恵みによって与えてくださることを感謝していく必要があるのです。神の言葉を相応しく聞いて、主に従うことができるように、礼拝のたびごとに祈り求めていきましょう。
今日与えられています箇所にも、まさに主イエスの説教の批評家として近づく者たちがいます。批評家というのは表現が弱くて、むしろ敵対者というべき人たちです。主イエスに近づいた者たち、祭司長、律法学者、長老たちは、当時の指導者達ですが、主イエスを吟味しようとしてやってきた。そこに、主イエスの語りかけに聞いて従う用意はどこにもないのです。
祭司長、律法学者、長老たちは、主イエスに問いただしています。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」(28)「このようなこと」というのは、11章15節以下に記されている、神殿でなさったことです。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」(17)と、厳しく戒められたことを受けているのです。
この箇所は聞き従う用意のない彼らに、主イエスが「それなら、何の権威でこのようなことをするかわたしも言うまい」(33)という言葉で終わっています。とても厳しい言葉です。エルサレム神殿の指導者達は、主イエスから何も語ってもらえなかったのでしょうか。
そのことを思い巡らしていますと、主イエスは何も語っておられないのではないことが分かってきます。心の用意のできていない、敵対する彼らにも、主イエスは、実に御自身を明らかにしておられる。そのことがよく分かります。
どういうことかと言いますと、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」(30)主イエスは問い返しておられることにあります。質問形式にはなっていますが、指導者達には、主イエスが、ヨハネの洗礼が天からのものだと言われているのが分かったはずです。
それは、「何の権威でこのようなことをするのか」という彼らの質問への答えにもなっているのです。すなわち主イエスは、天からの権威によって、さまざまなことを為しておられることを宣言なさっているのです。
神殿が礼拝堂としての中身を失っているときに、主イエスは、商売をする者の腰掛けをひっくり返されたりしました。それに対して、指導者達は、敵意を抱いて「何の権威でこのようなことをするのか」と問うたのです。しかし、主イエスは敵対する彼らにも、御自身を明らかにしておられる。実に見事であります。
「それなら、何の権威でこのようなことをするかわたしも言うまい」(33)と主イエスが語っておられるので、何か突っぱねておられるような印象を持たれるかもしれません。しかし、元々、つっぱねているのは祭司長たち指導者達であった。彼らは主イエスを退けようとしている。しかしそのような彼らに主イエスは介入しておられます。父なる神の権威によって教えて、わざを行われるのです。
「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」
批評家の話をしましたが、考えてみれば、批評する者自身もまた問われるのです。
主イエスによって、批評する者たちの姿が逆に明らかにされています。すぐ前の箇所に出てくる枯れたイチジクの木のように、見かけはりっぱであるが、そこに実を結んでいないことを主イエスは明らかにしておられるのです。
神に喜ばれる実を実らせていないことが明らかにされたとき、「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」(18)のです。その殺意はこの箇所にも引き継がれています。彼らは、主イエスを批評し、また吟味できる者と思い込んでいるようです。裁こうとしている。それは自分を正しい者としているということです。しかし、そこで最も深い罪を犯しているのです。その深い罪があらわれるのは、ひとつには戦争です。ウクライナに平穏な日々が取り戻されるように祈ります。正義の戦争を人は装うのですが、人の正義はもろいのではないでしょうか。しかし、決してひとごとではないのです。
自分を正しいとして、ほかの者を裁くという罪は、救い主でさえも裁こうとする。神を裁き評価することさえするのです。
思い起こす主イエスの御言葉があります。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(2:17)
ある神学者は、今日の箇所で、人の裁きと神の裁きがぶつかっていると言いました。
人の裁きというのは、先ほど触れましたように、「イエスをどのようにして殺そうかと謀った」殺意から出たものです。
そしてもう一方で、神の裁きは、神の愛による招きから出ているのです。
主イエスが「それなら、何の権威でこのようなことをするかわたしも言うまい」(33)という言葉は厳しい裁きの言葉でもあります。しかし、そこに明らかになるのは神の招きです。厳しい主イエスの裁く御言葉にも、かえって強い主イエスの思い、救い主の招きが明らかになって聞こえてくるのです。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
権威という大切な教えがここにあります。神によって与えられる、天からの権威がある。それは、教会に与えられている天からの権威のことでもあります。教会に与えられている権威、それは、主イエスの福音をのべ伝える権威です。
主イエス・キリストの福音を語る権威を、私どもは命をかけて大切にし、それに生きるように招かれているのです。主イエスの福音は、この礼拝においてこそ語られます。主イエスの福音を語り伝える礼拝の喜びに生きることは、私どもにとって尽きない喜びであります。
天からのものに、教会が支えられているなら、この先もまた、主が支えてくださるのです。教会を主イエス・キリストは、ご自身の体としてくださいました。私どもは主の体の部分部分とされているのです。どうか、主に結び合わされ、天からのものに支えられている安心をいただいて、礼拝からはじまる生活に、祈り励んでまいりましょう。
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