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2022年2月6日(日)聖日礼拝(zoom)

【降誕節第7主日】


 礼拝説教「仕える喜び」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 10:32-45


<讃美歌>

(21)25,20,51,510,64,29


 今日与えられています箇所には、32節「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。」とあります。この言葉は、聞き漏らしてはならない言葉です。明らかに、主イエスの歩み方が違っていることを知ることができるからです。

 主イエスの先頭に立って進む姿を見て、弟子たちは、恐れを抱いたとあります。マルコ福音書はこう記しています。「それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(32)弟子たちと、従う者たちがいたのではないのです。弟子たちは従う者たちでした。しかし、弟子たちが主イエスに従ってついていこうとしたときに、彼らは、恐れたのです。それは、しっかりとついていくことができなかった。従うことができなかったということです。

 従うことができなかった弟子たちを主イエスは呼び寄せて、なおも憐れみをもって近づいてくださいました。そのような主イエスの憐れみ深い御心に、私どもも導かれていきたいと願います。


 弟子たちが主イエスの後をついていくことができなくて恐れを抱いたときに、それで終わりではなかったのです。主イエスは、「再び12人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。」(32)とあります。何を話されたかというと、33節以下にあるように、ご自身の十字架の死と復活についてです。マルコ福音書で記しているのは3度目ですが、お話しになったのは、実際には、たびたびお話しになっておられたはずです。

 先ほど、主イエスの歩みが変わった、と言いましたが、そのことでは、9章の30節に、すでにそのことを読みとることができます。「一行は、そこを去って、ガリラヤを通って行った。」(9:30) 

 そこに、2度目に主イエスが十字架の死と復活について語られたことが記されています。しかし弟子たちは、怖くて尋ねられなかった、というのです。弟子たちの理解は、今日の箇所で進んでいるかといえばそうではなさそうです。従う者としての恐れは、さらに深まっているということができます。

 2度目、3度目のことを話しましたが、最初はと言いますと、ペトロが、主イエスをキリストと告白した時です。その時には、ペトロは、そんなことがあってはなりませんと、いさめる余裕があったかもしれない。しかし、2度目には、怖くて尋ねられなかった。そして、3度目、今日の箇所では、わざわざ、「従う者たちは恐れた」と記している。従おうとしてもついていけない、そこにある「恐れ」が段々深まっている。恐れが極まっているのです。

 マルコの教会は、これを自分たちの物語として記しています。そこには、絶えず、主イエスの死と復活について、主イエスから呼び寄せられて語っていただかなくてはならない、教えられるべき自分たちの姿を、重ね合わせていると理解することができるのです。私どもそうです。礼拝の度ごとに、主イエスから与えられた救いについて、教えられ続けていくのです。


 ここで、恐れを抱いて、従うことができないでいる弟子たちを、主イエスは見捨てて、それで終わりにはされなかった。そのことは、直前の箇所に記されている、主イエスに従うことができずに、去っていった、ある金持ちの青年の物語に通じています。

 悲しみながら立ち去る若者以上に、主イエスが、深い悲しみをもって祈りながら、見ておられたことを知るべきだと思います。彼に対する愛は、終わっていない。見捨ててはおられないのです。主イエスは、ひとりの青年のことは忘れて、ここで弟子たちに集中しておられるのではないはずです。 

 財産家の若者が立ち去った後、しばらくして、主イエスは十字架の苦難を受けられたのです。エルサレム中を騒がす出来事でしたから、あの青年の耳にも入ったでしょう。彼は、もしかしたら、十字架の主イエスを遠くから見ていたかもしれない。やがて、よみがえられたとき、彼もそのことを聞いたでしょう。そして、聖霊によって、キリストの教会が生み出されたとき、ついに彼も、神からの賜物として、従うことができたのではないか。そのように信じることはゆるされると思います。私どもに欠けているものは、主イエスに従うことです。最期まで主イエスに従うことは、自分の力ではできない。主イエスに従うこともまた、神からの賜物です。

 主イエスは御自分のもとを「悲しみながら立ち去った」ある青年のことをも心にかけながら、彼のためにも救いの道を拓くために、命をささげようとされているのです。それはもちろん弟子たちのためでもあり、私どものためでもあります。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:25)

 主イエスは、深い思いを込めて、弟子たちに前もって預言されたのです。(33・34節)しかし、弟子たちは、受けとめようとしたでしょうが、彼らの思いを超えたことでした。私どもも、主なる神から信仰を与えていただかないと、主イエスの救いがよく分からないのです。そこに、聖書の御言葉に伴う聖霊の働きがどうしても必要です。聖霊は、目に見えない神御自身であり、神の霊(Ⅰペトロ4:14、フィリピ3:3)、イエス・キリストの霊(フィリピ1:19)であります。

 主イエスが最も大切ことを語っておられるときに、弟子たちの心には、やはりどうしてもお話ししておく必要があったのでしょう。35節以下では、主イエスに、ひとつの願いを弟子たちの中のある者たちが、願い出ています。その願いというものは、何であるかと言いますと、自分達を主イエスの右と左に座らせてほしい、という名誉心に関わる話です。(37)主イエスの歩みと、弟子たちの思いがあまりにもずれています。

 しかし、それでもなおも、主イエスはその願いを受けとめておられる。そして、従ってくることができるようにと憐れみをもって導いておられるのです。その主イエスの憐れみは、あきれかえるほど広く深いものです。

 

 主イエスのそのようなお姿に、徹底して、仕える救い主の姿を見ることができます。私どもの模範としての、いや模範とは到底できない、ついていけない神のしもべの姿があるのです。それは、誰も父なる神の御心を満足させることができない中で、主イエスは、まことに私どものひとりとして、神のしもべとして生きてくださったのです。その主イエスが、私どもの先頭に立って進んでくださるのです。


 私どもの先頭に立って進まれる主イエスに、弟子たちは恐れを抱きました。改めて、弟子たちは何を恐れたのでしょうか。十字架におかかりになる覚悟を決めて毅然とした態度に恐れをいだいた、ただそれだけでしょうか。普段とは違うその姿にそれまで見たこともない気迫を感じて恐れたのでしょうか。そのような想像では十分ではないでしょう。

 ある神学者は、弟子たちは、先頭に立って進まれる主イエスの姿に、神の領域を垣間見て恐れたという意味のことを言います。私も同感です。このままついていったら、自分達が死んでしまう、滅びるほどの恐れだというのです。弟子たちは言いしれない恐れをいただいたその中身を自分達で解説できなかったでしょう。しかし、ある神学者は、このようにたとえます。

 それは、水の中に生きる魚と人の世界を比べます。魚は、水の中でしか生活できない。水面を境にして接していますが、人の世界と魚の世界は明確に区分されています。例えばトビウオなどは、一時的に水の外へと飛び出すことはできても、ずっと水を出て人の世界に住むことができない。同じように、私どもも、自分を魚にたとえるなら、ずっと水を出て神の世界に住むことができないというのです。もちろん、トビウオのように、預言者として、一瞬、水の世界、人の世界を飛び出て、神の領域を垣間見た人はいる。しかし、そこで恐れを抱き、そこでずっといたら自分は滅びるほかないと思ったはすだ、というのです。弟子たちがここで抱いた恐れは、主イエスに神の姿を見て、その神の領域を垣間見て、弟子たちは、このままついていくことはできない、魚が水を出たらやがて死んでしまうように、自分達は一緒に生きていけないほどの恐れを抱いたというのです。

 このことは、信仰生活でとても重要なことです。今与えられている恵みを考えるときに、神様の恵みによる憐れみがなければ、聖なる神様の前で、罪深い自分は滅びるほかはない。そのような恐れを抱くことがあります。恐れと感謝をもって恵みをいただくというのは、畏れ敬うので、畏れという字の方がいいかもしれません。そのような神に対する畏れ敬う心はとても大切なことであります。恵みというのは、与えられる理由がないのに、あえて神が憐れみをもって与えてくださるものです。

 

 私どもは、いわれなき苦しみと呼ぶべきことを経験することがあります。だれも理由を見いだせない経験です。災害もそうであるかもしれません。新型コロナウイルスに翻弄される出来事も災害に相当すると言うことができます。しかし、私どもが踏み込めない領域もあることを、畏れをもって信じて、神の憐れみを祈って互いに仕えて行くほかはありません。

 いわれなき苦しみと共に、いわれなき苦しみと全く逆なことですが、私どもはいわれなき恵みを、軽々しく受けてはならないのです。私どもは、受け取る理由のない、いわれなき恵みによって、ここに存在している。白鷺教会が、いわれなき神の恵みよってここに至っている。数々の恵みを数え上げることはできない、それほどに恵まれているのです。

 しかし、いわれなき神の恵みは、何よりも、主イエスが私どもの救い主として十字架の上に命を献げ、お苦しみくださったことです。その痛みと苦しみによって私どもは、もはや神から審かれ退けられていくことから救われたのです。すべてを赦されて、神の平安のうちに生きることができるのです。


 いわれのない恵みに畏れと感謝をもって私どもは、まず主なる神に仕えるのです。そして互いに仕えるのです。ですから、教会は、仕え合う神の家族であります。誰かが、一方的に、仕えてもらったり、ただ仕えるだけでいるのではない。私どもに先立って、主イエスが命を献げて仕えてくださり、なおも、仕えて支えてくださっている。主の聖霊によって支えてくださっている。いわれなき恵みに生かしてくださる主イエスへに、畏れと感謝と喜びをもって、神と人とに仕えていきましょう。



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