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2022年2月27日(日)聖日礼拝(zoom)

【降誕節第10主日】


 礼拝説教「祈りが実る」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 11:12-19


<讃美歌>

(21)25,9,165,497,64,29

 

 聖書に、いろいろな果物の名前が出てきますが、旧約聖書・新約聖書全体を通して、もっともよく出てくるのは、何だと思われますか。ある方は、ぶどうだと思われるでしょうが、ぶどうよりも、多く名前が記されているのが、今日の箇所にもあります、いちじくです。それだけ、聖書の民にとって、身近なものであったということです。

 聖書の有名な話では、アダムとエバが罪を犯して、神の前に出ることができずに、腰にいちじくの葉を巻いたとあります。(創世記3:7)それは、聖書に出てくる最初の果物、植物ですが、腰を覆ったのは、そこに象徴的な意味があると言われます。それは、人が神の前に、裸のまま、その罪の姿そのままで出ていくことができなくなった。その裸の恥を覆うようにして生きていかなくてはならなくなった、ということです。

 あるいはまた、ヒゼキヤ王の物語も有名です。(列王記下20、イザヤ38)ヒゼキヤ王は、死ぬほどのある病にかかるのですが、干しいちじくを、その患部に当てると回復したと記されています。とても不思議なことです。しかし、ついでのことですが、そのヒゼキヤ王の物語がきっかけとなって、ある博士が、いちじくの果実から、抗ガン剤の有効成分を発見するに至ったというのです。

 さて、非常に身近な果物であったいちじくは、聖書の中で、ある者たちを指して用いられることがあります。それは、ぶどうがそうであるように、いちじくもまた、旧約の民、イスラエルの民を指して用いられることがあります。

 有名な箇所は、ミカ書7:1~2です。

「悲しいかな

 わたしは夏の果物を集める者のように

 ぶどうの残りを摘む者のようになった。

 もはや、食べられるぶどうの実はなく、

 わたしの好む初なりのいちじくもない。」

 旧約聖書の民が、主なる神に対して、神を喜ばせるような実を結んでいないことが、嘆きの歌となって記されているのです。しかし、私どもはその歌をのんきに、人ごととして聞くことは出来ないのです。

 いちじくは、聖書の地では、6月頃に早なりの実をつけ、それが非常に珍重されたようです。通常は、8月から収穫がはじまります。ミカ書で言われているのは、早なりのいちじくのことで、旧約の民が、神に喜ばれる実を実らせるのことがないことへの嘆きが、「悲しいかな・・・」と記されているのです。

 今日与えられています箇所に、いちじくの木について記されています。改めてお話しする必要はないと思います。

 多くの学者たちが、十分な解説を付けることができないで苦しむ箇所であります。それは、確かに、いちじくの季節でもないのに、実を結んでいないからと、主イエスから呪われて、言い換えるなら、裁かれて枯れてしまうのは、理解に苦しむという点です。イスラエルの民にとって非常に身近な実りであった、いちじくの実りの季節を、主イエスが間違えたとは思えないのです。ここに起こったことは、全く、呪われる必要のないいちじくの木が、主イエスによって裁かれ、枯れてしまった、ということです。

 主イエスは、すでにエルサレムに入城されているのですが、この何日か後には、十字架の苦難と死に、その身をゆだねる覚悟をもって歩んでおられるのです。そのような時に、主イエスのまわりに、いったい誰が、このいちじくの木に起こったことを理解して、共に、祈り支える者がいたのだろうかと思います。

 私は、このいちじくの木に起こった事を思い巡らすときに、正当な理由なく呪われたいちじくの木と、主イエスの十字架への歩みが、重なるような思いがします。そこに、たった独りで、救いへの道を歩まれる主イエスの姿を思い浮かべます。

 弟子たちの誰もが、十字架の苦難の時、主イエスを独りおいて、ばらばらになってしまった。あるいはまた、主イエスの弟子だからというので、主の十字架に際して、誰ひとりとして、主イエスと共に、命を落とす者はいなかったのです。

 たったひとつ、ここに記されているいちじくの木だけが、十字架を前に、その命を果てることになりました。このいちじくが枯れなければならない理由など、誰にも全く見出すことができないのであります。

 しかしまた同時に、主イエスが十字架の上に、神に裁かれて、死ななければならなかった理由を、いったい誰が見出すことができるのでしょうか。

 弟子たちはやがて、死からよみがえられた主イエスに出会ったときに、主イエスの十字架の死が、自分たちのためであったことを知ったのです。本来、神のみまえに、そのまま出ることができずに、裁かれるべき私どもに代わって、神の裁きを受けてくださった。そこに、罪赦される道が与えられた。自分の罪の姿を覆っていただくことができるようになったということです。

 弟子たちは、さらに、キリスト教会の歩みを確かなものにしようと祈り求めていくときに、いちじくの木の物語に続く、15節以下を思い起こしたことでしょう。ここは、「宮きよめ」と呼ばれることが多い箇所です。なぜ、弟子たちは、思い起こしたのか。しかも、幾たびも絶えず思い起こしたであろうと、言うことができるのか。それは、教会の呼吸とも言うべき、祈りについて記されているからです。

 特に、17節のみ言葉は、弟子たちが、初代教会の歩みにおいて、心に刻んで忘れることはなかったはずです。だからこそ、ここに記されているのです。17節「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」17節で、「祈りの家」の反対の言葉として、主イエスが、「強盗の巣」と呼んでおられるのは、注目すべき言葉です。

 主イエスは、エルサレムの神殿の境内に入って、いわゆる「宮きよめ」と呼ばれることをなさいました。(15~16節)

 神殿の境内で営まれていたことは、ある意味、通常のことです。「両替人」も「鳩を売る者」も、当時の習わしの中では、当たり前のことであった。

 ここで、主イエスが為さったことは、何かを教えようとされたこと以上に、ある神学者が指摘するように、すでにここに、神の裁きがはじまっていると言われるのです。それは、先ほどの、いちじくの木に起こった事ともつながってきます。

 いちじくの木が、さばかれて枯れるべき何かの理由を見いだせないように、私どもは、主イエスが十字架の苦難と死を受けられなければならない理由を、主イエスに見出すことができない、と言いました。

 そしてもうひとつ、ぶどうの木と並んで、いちじくの木は、旧約の民、神の民を指して用いられてきたと語りました。彼らは、神の前に結ぶべき実を結んでこなかったということです。ですから、いちじくの木への裁きの背景には、旧約の民、イスラエルの民が、神に喜ばれる実を結ぶことができずにいたことがあるのです。

 ですから、主イエスの宮きよめも、実を結ばずにいた神の民への裁きが、ここにはじまっていると言われるのです。「祈りの家」としてのふさわしい歩みをしていない民への裁きが行われている。

 しかし、どうでしょうか。「祈りの家」となっていなかったとしても、強盗の巣というのは、厳しすぎると思われるでしょうか。ここに語りかけられているのは、祈りの家でもなければ、強盗の巣でもないという、中間はないということでもあります。

 先ほど、17節の主イエスの語りかけを、弟子たちは、心に刻んで教会を形成していったと語りました。それは、祈りの家と呼ばれるべきキリスト教会が、強盗の巣になってはいないかと、問い続けたということです。

 では祈りの家としての、ふさわしい歩みを、どこに見出そうとしたのでしょうか。それは、祈りという時に、それは、自分たちのことだけを祈るのではないということです。当時、教会に集まる者たちが、自分たちのことだけを祈り求め、神の御心に添わないで、利己的に追い求めていたとするなら、それは、強盗の巣であるということです。

 彼らは、絶えず、利己的な祈りの姿を照らし出されたことでしょう。たとえ、自己中心な思いからはじめた祈りであっても、マルコの教会の者たちは、礼拝をささげていく中で、神の憐れみにより、神の御心に添った祈りへと導かれた。そこに教会の祈りを授けられていったということです。


 加藤常昭先生がこんなことを記しているのを思い起こします。「教会とは何か」という、小冊子の中にこうあります。


「祈る教会、ということを考える時に、われわれが思い起こすのは、マルコによる福音書第9章14節以下にある、けがれた霊につかれた子を癒すことができなかった弟子たちのことです。先生のイエスが留守の間に、癒してほしいと父親に連れてこられた子を、弟子たちは癒せませんでした。それはなぜでしょうか。『このたぐいは、祈りによらなければ』不可能だとイエスは言われました。(29節)弟子たちは、全く祈らずに癒そうとしたのでしょうか。それとも祈ったものの、それはイエスが言われたような意味での祈りではなかったということなのでしょうか。この子の父は、イエスとの対話の中で、「信ずる者には、どんな事でもできる」というイエスの言葉に答えて、『信じます。不信仰なわたしを、お助けください』と言いました。(24節)そして癒しが起こりました。マルコは、この父親の言葉の中に、ひとつの真実な祈りの姿を見ていると言ってよいでしょう。自分は不信仰です。『もしできますれば』と、つい言ってしまうような祈りしかできません。しかし、そのままに、その不信仰な自分を神に委ねてしまうように、『お助けください』と祈るのです。その意味で『信じます』と言うのです。

 教会の祈りもまたそうでしょう。」


 教会の祈りというときに、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください。」という、不信仰な自分を神に委ねてしまうように、「お助けください」と祈ることがゆるされているのです。

 何よりも、祈りの家としての教会の祈りというときに、ふさわしく神の御心に添って祈ることを求めるべきですが、その祈りの模範は、主の祈りです。主の祈りを言葉として祈ると共に、その祈りに生きるときに、私どもは、祈りの家としての教会の歩みを踏み外すことはないのです。



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