【降誕節第9主日】
礼拝説教「用いてくださる」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 11:1-11
<讃美歌>
(21)25,15,113,504,64,29
礼拝では、マルコによる福音書を少しずつ学んでいます。今日から11章に入りますが、マルコ福音書をいくつかに区分けするなら、ここからは、明らかに10章までとは違う、新しいまとまりになります。それは、ここから、主イエスの十字架の苦難と死、そして、復活の出来事が具体的に記されているからです。期間にすれば、わずか一週間ほどの間に起こったことが、実に丁寧に記されています。マルコによる福音書は、4つの福音書の中でもっとも短く16章ですが、そのおよそ3分の1をあてているのです。
マルコによる福音書は、1章の1節で「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と語りはじめていますが、「神の子イエス・キリストの福音」を記すのに、どうしても丁寧に記すべきことがあった。それが、11章からの主イエスの受難の物語です。十字架へと至る苦難を受けられて、死なれ、そして、死からよみがえられた、主イエスの道を記しています。そのことは、たまたま起こってしまったこととしてではなくて、神の御心の中での出来事として記しているのです。それは、私どものために、主イエスがご自身の体(からだ)である教会を生み出すために、どうしても成し遂げるべき主イエスの道であったのです。
マルコ福音書では、11章以前に、主イエスの道はすでにはじまっています。直前の箇所で、目の見えなかったバルティマイが、主イエスによって見えるようにしてもらった物語を学びました。しかし、彼は、その見えるようになった目をもって、「なお道を進まれる」主イエスに従ったのです。すでに主イエスは、ご自身の道が、やがて、エルサレムへと至ることを知って歩んでおられました。そこで苦難を受けられて、死なれ、三日の後に復活されることを、道々、弟子たちに教えながら来られたのです。
そして、いよいよエルサレムに入られた。エルサレムに入城されたのです。
エルサレムに入城されたとき、そこには、迎えた人々の期待がありました。また同時に、自らの道を進まれる、主イエスの思い、確信があったのです。ろばに乗られる姿にそれが現れているのですが、私どもは、救い主の道を歩まれる主イエスに思いを深め、改めて主イエスを私どもの教会の主としてお迎えしたいと願います。主イエスにゆだねて生きる幸いを確かにされていきましょう。
人々は、9節にあるように「ホサナ」と叫んで、主イエスを迎えました。それだけではなく、道に自分たちの着ている服を敷いて迎えたのです。人々は、身につけていた大切な上着を道に敷いたのです。
またある者は、野原から葉の付いた枝を切ってきて道に敷きました。その枝は、なつめやしの枝であったとヨハネ福音書(12:13)は記しています。
そのようにして、彼らは、主イエスを迎えた。それは、王を迎える迎え方であると言われます。当時人々が、主イエスに何を期待していたかということでは、ひとつには、自分たちを支配しているローマ帝国から解放してくれる、力強い王を求めていたと言われるのです。
彼らは、「ホサナ」と叫びました。それは、「わたしたちに救いを」という意味です。
同じ言葉が、詩編118編25~26節に記されています。
「どうか主よ、わたしたちに救いを。・・・
祝福あれ、主の御名によって来る人に。」
この歌は、元々、エルサレムを巡礼する人々を、祭司がエルサレムから迎え出て歌った歌です。しかし主イエスが来られたとき、祭司は迎えてはいないのです。人々が迎えました。あるいは、主イエスと一緒にここまでやってきた人々が、エルサレムに入られたのを喜んで、王を迎えるように道に上着を敷いた。そして、「ホサナ」「わたしたちに救いを」「わたしたちをお救いください」と叫んだのです。
しかし、当時人々が、どういう救いを望んでいたかが、問題であるのです。多くの人々は、これから主イエスが成し遂げようとされる、罪の赦しによる救いとは違う、政治的に国が独立するという意味での救いを期待していたと言われます。弟子たちもまた同じような、軍隊を率いて自分達を解放してくれる王のような救い主を思い抱いていたと思われます。しかし弟子たちは、そのようなずれた思いをやがて正されて、主イエスが誰であるかはっきりと分かるときが与えられたのです。
マルコ福音書がこのように記されたのは、主イエスの十字架と復活の後です。ですから、ここに告白されている、「ホサナ」「わたしたちに救いを」という叫びは、依然としてずれた叫びではなく、自分たちの信仰の告白を重ね合わせて記しているのです。どういうことかと言いますと、マルコの教会が、今再び、主イエスを自分たちのまことの王として、教会に迎え直していると理解することができるのです。
ここで、ある神学者のこの箇所についての説教を思い起こします。そこには、主イエスが私どもの王として来てくださったということを、どれほどに受け入れて、歩んでいるかということです。私どもは、自分の人生は、いつも最終的な主権は、自分が握っていると思っているのではないか。ゆだねますと言いながら、ゆだねるということを、もともと私どもは知らないのではないか。神の主権に、自らをゆだねて、従うことを、自然に元々できない私どもであるならば、主イエスに従うこともまた、教えられなければできないのであります。
そのように私どもが主イエスを王として受け入れ、そこに自分の存在をすべてゆだねて平安のうちに生きるためには、いったい主イエスがどのような王であるかを、知る必要があるのです。
主イエスは、エルサレム入城に先立ち、弟子たちに、子ろばを用意するようにお命じになります。子ろばとは言っても、人を乗せることができる、若いろばだと言われます。その時に、弟子たちに、「主がお入り用なのです」と言うようにお命じになります。主とは、神のことです。ここでは、主イエスは、自らのことを指して、「主」と呼んでおられます。
「主がお入り用なのです。」と言われて、その時に、自分のろばを差し出すのは、まさに、主の主権のもとに従うこと、王なる主イエスに従うことであります。しかし、主イエスは、私どもから、奪い取る王ではないのです。
「主がお入り用なのです。」という言葉には、「すぐにお返しになります。」という言葉が続くのです。奪い取るためではなくて、むしろ、主をお乗せする、主のご用に用いられる幸いを与えるために、「主がお入り用なのです。」と語りかけられてくださるのです。
主イエスが、ここでろばに乗って入城されたことは、ゼカリヤ書9章9節に記されていることだと言われます。
「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗ってくる
雌ろばの子であるろばに乗って。」
もうすでにお気づきの方もいると思いますが、通常、王が入城するときは、ろばには乗りません。馬にまたがるのが常です。馬というのは、戦いに出ていく軍馬です。ゼカリヤ書に預言されているのは、ろばに乗る平和の王が記されているのです。ろばに乗って主イエスは、エルサレムに入られますが、馬が戦いを思い起こすのに対して、主イエスが乗られたろばは、ここに神の平和を象徴しているのです。
主イエスは、世俗の王のように、戦いによって、平和をもたらそうとする王ではない。あるいはまた、力に対して、より大きな力を示して平和をもたらす王でもない。人々が、神との平和、罪の赦しによる、主イエスの和解の福音にあずかることによって、まことの平和をもたらす王であります。
主イエスは、世俗の王のように人を支配するために来られたのではない。主イエスは、神の恵みによって支配し、私どもに、主に従う幸いを与えるために、来られたのであります。主イエスが、恵みによって支配する王であることを知るときに、安心してゆだねることができる。むしろ、私どもの王として、教会の頭として、私どもを治めてください、と祈るのです。
私どもは、礼拝で与えられる主イエスの御言葉の語りかけに導かれて、さまざまなことがある中にも「ホサナ」「私たちをお救いください。」と主イエスにゆだねて生きることができるのです。どのようなときにも、私どもを見捨てることなく覚えてくださる主イエスの聖なる命と繋がって生きることは、私どもの喜びです。主イエスと繋がっている喜びは、いかなるものも誰も奪い取ることができないのであります。
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