【降誕節第8主日】
礼拝説教「見えるように」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 10:46-52
<讃美歌>
(21)25,17,166,454,64,29
この朝、私どもに与えられ、共に心を傾けて聞こうとしています箇所で、主イエスは、「何をしてほしいのか」(51)と問いかけられています。「何をしてほしいのか」という、主イエスの問いに心をとらえられる思いがします。私どもなら、「何をしてほしいのか」と主イエスに問われて、どう願い出るでしょうか。「何をしてほしいのか」と主イエスに問われて、願い出るその願いは、私どもの中身をよく表したものになるでしょう。
今日の箇所の直前では、やはり主イエスから「何をしてほしいのか」と問われたゼベダイの子ヤコブとヨハネとが、願い出ています。「二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」(10:37)実に大胆不敵な願いと思います。主イエスが十字架に命をお献げになる最も重要な話をされたときに、それを受けとめていくのではなく、自分達が名誉を受けて偉くなりたいことを願い出ている。しかし驚くことに、主イエスは彼らの願いをしっかりと受けとめられています。そして、主イエスに倣って、僕となる道へと彼らを導いておられるのです。彼らの願った以上の、主イエスの道が備えられていったのです。
与えられています箇所には、主イエスに「何をしてほしいのか」と問いかけられたバルティマイについて記されています。バルティマイは、主イエスに「先生、目が見えるようになりたいのです。」(51)と告白しました。彼は、主イエスの御言葉によりすぐ目が見えるようになっただけではなく、「なお道を進まれるイエスに従った。」(52)と記されています。バルティマイには、その願い出た願い以上の道が、主イエスによって備えられていったのです。このバルティマイの物語は、彼の目が見えるようになったことが御言葉のメッセージの中心ではありません。もっと大切な、聞くべき豊かな神のメッセージが語られています。共に御言葉に耳を傾け、その恵みを味わいたいのです。そしてその恵みに応答して、私ども主イエスを喜び、主イエスを愛して聞き従う者とされましょう。
さて、10章46節はこのように語り始めています。「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。」エリコという町は、昔から泉がわくことで人々が集まり、また、交通の要所にありますので、豊かに暮らしている者が多かった町ではないかと思います。
そのエリコの町に主イエスと弟子たちが来られたのですが、不思議なことに、46節には、エリコの町で主イエスが何を教えられ、何をなさったかが語られずに、「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき」と記されています。エリコの町は交通の要所で、首都のエルサレムから北東に20㎞ほどのところにあります。エルサレムに行くときに、人々はエリコで休息して、身支度を整えてエルサレムを目指しました。主イエスと弟子たちは、最初からエリコの町を、単なる休憩地とされていたのでしょうか。
確かに、主イエスと弟子たちはエリコの町で休憩されたことでしょう。しかし、エリコの町の人々は、バルティマイ以外に、誰も主イエスのもとに来る者がいなかったということではないでしょうか。エリコの町の人々は、危うく主イエスを素通りさせてしまうところだったとも言うことができます。
エリコの町で、主イエスとその一行が素通りされようとしていたまさにその時、人々の予期しない叫びが聞こえてきました。それはバルティマイの叫びです。バルティマイは、目が不自由だったので、おそらく耳で多くを知り生活していたと思います。その日、いつもとは全く違う様子に彼は気づきました。そして、あのナザレのイエスが来られているのだと聞くと、バルティマイは叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」(47)
バルティマイの叫びに対して、多くの人々が彼を叱りつけて黙らせようとしますが、バルティマイは、ますます叫び続けました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」(48)バルティマイを黙らせようとする人々の姿は、弟子たちのある姿と重なります。
この箇所は、10章のまとまり、流れの中におかれていますが、10章13節以下には、主イエスに祝福を求めて人々が子どもたちを連れて来たとき、弟子たちが叱った姿が記されています。その弟子たちの姿と重なるのです。主イエスは、憤られ、弟子たちに言われます。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(10:14)
主イエスは、バルティマイの叫びを聞き届けて、立ち止まって言われました。「あの男を呼んで来なさい。」(49)わたしは、主イエスの「あの男を呼んできなさい。」という言葉が、また次のようにも聞こえてくるのです。「バルティマイをわたしのもとに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
主イエスの言葉を受け、人々はバルティマイを呼んで言います。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」(49)主イエスに呼び出されることが、バルティマイのうちに、喜びの泉を与えました。50節にありますように、バルティマイは、大切な上着を脱ぎ捨て、喜びのあまり躍り上がってイエスのもとに来るのです。目の見えない彼が、主イエスのもとに行くためには、誰かに連れてきてもらわなければならないはずで、その誰かがいたことは、心に留めておくべきではないでしょうか。
さて、大切な上着を脱ぎ捨て、喜びのあまり躍り上がって主イエスのもとに来たバルティマイは、まだ何もしてもらっていないのに、すでに、すべてを得たかのような様子であります。バルティマイは、この時、神に見いだされ呼び出される喜びにあずかっているのです。
私どもも、「安心しなさい。立ちなさい。」という言葉を、自分への神様からの語りかけとして、信じて受け取ることが出来るのです。そこに、何の癒しのわざも起こっていないようでありながら、すでに、神に見いだされ招かれる喜びが与えられている。主イエスの癒しがはじまっているのです。喜びのあまり躍り上がって主イエスのもとに来たバルティマイのように、私どもも、主イエスのもとに行くことができるのです。
キリスト者とされた者は、神に見いだされ、主のもとに呼ばれる喜びにあずかった者であります。主イエスの御言葉を共に聞くということは、主の恵みによって、語る者も聞く者も共に、主イエスのもとに招かれる喜びにあずかることではないでしょうか。
主イエスは、みもとに来たバルティマイに信仰を見いだされました。主イエスはバルティマイに語りかけられます。「何をしてほしいのか」(51)バルティマイは正直にこたえました。「先生、目が見えるようになりたいのです。」
主イエスは、バルティマイの求めに対して、ただ御言葉を語られます。
52節「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
主イエスの御言葉は現実となり、バルティマイの目は見えるようになりました。そのことは、彼にとっては大変なことであったと思います。しかし、バルティマイは、目が見えること以上の幸いにあずかっているのです。彼は、神の救いにあずかりました。救いの喜びにあずかり、主イエスにとらえられて生きる者となったのです。
バルティマイのその後について、52節には、バルティマイが「なお道を進まれるイエスに従った。」と記されています。「なお道を進まれるイエスに従った。」というのは、とても含蓄のある御言葉であります。
この箇所の少し前、10章の32節以下には、主イエスが3度目にご自身の死と復活について語っておられます。そして、バルティマイの物語の直後に記されています、11章1節以下16章の終わりまでは、主イエスがいよいよ、エルサレムに入城されて、十字架の苦難を受けて死なれ、三日の後によみがえられて弟子たちにメッセージを残される箇所です。
「なお道を進まれるイエスに従った。」バルティマイは、見えるようになった目で、主イエスの十字架の苦難と死、復活を目撃したはずです。ここにバルティマイという名が記されているのは、彼が主の復活の証人として、その名を知られていたからであるとも言われます。
バルティマイは、なお道を進まれる主イエスに従う幸いにあずかりました。彼には、主イエスに願い出たことよりも、遙かに勝る道が備えられました。おそらく物乞いであったときよりも、遙かに勝って、自らの乏しさを彼は痛感したでしょう。しかし、その道は彼にとって、喜びの泉が絶えない道でした。
バルティマイは生涯主イエスを愛し、「なお道を進まれる主イエス」に従いました。私どもも、同じ幸いにあずかっているのです。私どもも、御言葉によって導いてくださる主イエスに聞き従ってまいりましょう。
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