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2022年1月9日(日)聖日礼拝

【降誕節第3主日】


 礼拝説教「一杯の水」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 9:38-41


<讃美歌>

(21)26,202,278,280,64,27


 与えられています箇所は、ヨハネという弟子の質問から始まっています。

 ヨハネはどういう弟子だったかというと、主イエスから、ボエネルゲス、雷の子、と呼ばれることがあったようです。その呼び名からの想像ですが、雷の子と言われるほど熱血漢であったと思われます。正義感が人一倍強かったのではないか。

 正義感というものは、大切なものですが、ときには正義感と正義感がぶつかってしまうこともあります。自分は正しいのだと判断していくのですが、私どもの正しさには狭さがつきまといます。相手が間違っていると決めつけているときに、自分自身が考えを変える必要があることがあります。主イエスの御言葉に照らされるというのは、まさに私どもの狭い正しさが示されて、主なる神の広い、愛の心に生きるようになるということです。


 ある日、ヨハネが、主イエスのところに来て報告しています。相談に来たというよりも、こういう良いことをいたしました、と報告に来ていると読むのが自然です。

38節「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」

 おそらくヨハネは、主イエスから、「よくやった。それでよろしい。」と言われるのを期待していたのではないか。所謂(いわゆる)お墨付きをもらおうとした、ということです。

 ヨハネの期待に反して、お墨付きはもらえなかった。その変わりにヨハネは、その思いを正されて広くされていったのです。どこが間違っていたのでしょうか。

 ヨハネは、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ました」と言っています。これは事実の報告で、それ自体は、間違っていません。

 当時、悪霊を追い出すために、祈りがささげられていました。

 異教の世界では、いろいろな神々の名前を連ねて祈る、ということがあったそうです。そのときに、できるだけ多くの名前を連ねて、神々のどれかの名前が効果があるかもしれないという具合に列挙したようです。その列挙された神々の名前のひとつに、主イエスのお名前が使われたとしたら、ヨハネがやめさせようとした気持ちを理解できます。

 

 私どもは、主イエスのお名前によって祈ります、と祈りを献げて、自分では届かない祈りを、主イエスが祈りとして聞き届けられるようにしてくださることを信じて祈ります。

 ここで、主イエスのお名前を使う、ということについて思い巡らしたい。主なる神の名前というのは、聖書では単なる名前ではなく、主なる神そのものをあらわすものでもあります。

 例えば、先ほど申しましたように、祈るときに、主イエスのお名前によって祈ります。このことは、私どもの名前で祈ったのでは聞かれないからです。 

 買い物をして、サインをする。その時に、自分の名前ではなくて、父親から、わたしの名前で、買い物をしてよい、と言われたとします。そうすれば自分はお金がなくても、父親が払ってくれるので買うことができます。

 あるいは、大切な書類を提出するときに、印鑑が必要な場合があります。しかも実印と呼ばれる正式な印鑑です。

 主イエスのお名前で祈るということは、祈りの実印を使っていいと言われているようなことです。とてももったいないことです。神に祈りをささげることができる尊さを、どれほどに受けとめているか、そう思います。

 

 さて、ヨハネは、その思いを正されていきました。言い換えるなら信仰を正されていったのですが、どこを改められたのでしょうか。

38節「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」

 「私たちに従わないので、やめさせようとしました。」とヨハネが言った、そのことについて、主イエスは改められたのです。ヨハネは、「私たちに従わないので」と言ったとありますが、ヨハネを含めた「私たち」が、全く正しくて、そうではない者たちは、全くはずれている、そのような響きが伝わってきます。

 しかし、この直前の箇所で、ヨハネを含めた「私たち」は、十分に主イエスのことが分かっている者たちではないことが記されています。そのことは、彼らが、「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」からです。

 ヨハネは、「私たち」と呼ぶその中に、主イエスが含まれていると思っていたかもしれません。当然、主イエスも同じように考えておられると思っていた。しかし、実際はそうではなかったのです。39~40節「『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。』」


 心を込めて主に仕えて、熱心であることはすばらしいことです。しかし、自分たちの歩みを、主の御心そのものと思い込んで、悔い改めることを忘れるときに、そこで、罪に陥っていくことがあるのです。主イエスがそこにおられない、「私たち」になってしまうのです。御言葉によって照らして導いてください、という祈りを失ってはならないのです。 どうか、私どもは祈り続けていきたい。罪人の私どもを憐れみ、その罪を赦して、ふさわしい信仰へと導いて、主の愛に生かしてください。

 あるいは、ドイツの教会で受け継がれた、家庭生活の中での祈りを受け継いでいきたい。「日ごとになくてならないのは、罪の赦しと食卓の糧です。」

 

 主イエスはヨハネに、語りかけられます。40節「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」この御言葉を味わいますと、主の御心が広く開かれていることを思います。キリストに従うことが、そのような主イエスの大きな御心に従うことでもあることを、教えられます。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」

 主イエスの御心は、私どもが考えているよりも、ずっとふところが広く寛容であります。


 さて、ここに記されているのは、若い頃のヨハネの経験です。やがてヨハネは年輩者となって、若い者たちに語りかけたかもしれない。自分の若い頃の恥ずかしい思い出を語ったということです。主イエスから語りかけられたことを、また、語り聞かせたということです。難しい問題に出会うたびに、主イエスならどう考えられるか、どうなさるか、祈り求めていったはずです。

 当時、このマルコによる福音書が記されたころには、ヨハネは高齢になっていたでしょう。あるいは、すでにこの世を去っていたかもしれない。殉教の死を遂げたとも言われます。実際にはよく分かりません。しかし、生死を分ける厳しい迫害の中に置かれていたのは、確かでしょう。会堂を追われ、ひそかに礼拝をしていた家庭を追われ、彼らは、地下の墳墓で礼拝を献げたと言われます。殉教者の棺を囲むようにして、礼拝をささげたと伝えられているのです。

 その時に、ヨハネたちは、ある主イエスの御言葉にどこまでも従ったのではないか。それは、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(8:34)という御言葉です。しかし、自分たちこそ、従っている、彼らは私たちとは違う、と独善的になるときに、また、主イエスの言葉を思い起こすのです。 40・41節「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 彼らは実際に、厳しい信仰生活の中で、差し出される一杯の水に、命をつないでいく、ということがあったのではないか。あるいは、このようにも想像します。ひとりの殉教者が連れらていくということがあったかもしれない。その時に、自分はそこまで、はっきりと信仰を言い表せずにいるけれども、せめて、この一杯の水を飲んでのどを潤してほしい、と差し出される一杯の水があったのではないか。

 そのようなことを思い巡らすときに、主イエスの御言葉は、慰めであります。41節「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 「キリストの弟子」と訳されている言葉は、「キリストのもの」と訳せる言葉です。すなわち、キリストの名前を受け継ぐ者、であります。ヨハネたちが、いかにつたなくても、主イエスは、あなた方を受け入れる者は、わたしを受け入れることになる、その報いを受ける、と言われる。それほどに、彼らを愛し抜いてくださったのです。


 弟子たちを最後まで愛しぬかれた、主イエスの愛は、今も変わらずに、キリストの教会に注がれている。その教会の一部一部である、私どもにまでに注がれているのです。あなたがたに、キリストの弟子だというので、わずかな助けを与える者は、神の報いから漏れない、とさえ言ってくださる。それほどに語りかけてくださる、主の思いを、私どもは知り続けてまいりましょう。主イエスの愛の語りかけを心から信じて、感謝をもって、私どもも主の愛に生きるよう祈りつとめていきましょう。



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