【降誕節第6主日】
礼拝説教「神にはできる」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 10:17-31
<讃美歌>
(21)26,12,128,197,64,27
あるとき、信仰の入門講座でこんな話をしました。それは、私は歯が痛くならないと歯医者さんに行かないのです。本来は、日頃から歯医者さんに通って、予防を心がけるべきでしょうが、痛くなったら歯医者さんに行くように、教会を利用しようと思ってもうまくいかないということをお話ししました。私の場合、歯医者さんには、治療が終われば行かなくなってしまいます。
信仰生活は、自分を出発点として、その求めが得られれば、それで区切りがついてしまうようなものではないのです。神様の招きを受けとめて、生涯、主に従って生きていくのが信仰生活です。入学はあるけれども、卒業はないのですよ、とお伝えしています。
自分を出発点として、ということでは、今日与えられています箇所では、ある人が、主イエスのもとに走り寄って、ひざまずいて尋ねています。彼の求めの強さ、必死さがうかがえます。
17節「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
彼の求めの強さ、必死さから学ぶところがあるかもしれません。少なくとも、その求めを主イエスが受けとめておられます。彼の思い煩いはどこにあったのか。その必死な求めはどこから来ているのか。そこを知ろうとしなければ、これは私どもの物語とはならない。マルコの教会は、あるひとりの人の話を、自分たちの物語として記しているのです。
「永遠の命を受け継ぐ」とある「受け継ぐ」というのは、「相続する」ということです。この地上で終わらないいのちを受け継ぐ、そのようないのちを相続することに必死であった。それは、人ごとではない。ある神学者が指摘するように、彼は、死ぬのが恐かったのではないか。自分の存在をすべてあずけることができる平安をもっていなかったということです。
しかし、キリスト者になれば、死ぬのが恐くなくなる、そのような思いとは関係なくなるかと言えば、そうではないと思います。
この人は、確かないのちを求めた。それは、誰のためでもない、自分のためです。
マルコは、「ある人」、と記しています。「彼」(20)ともあるので、男の人です。
この箇所は、マタイ福音書にも、ルカ福音書にも書かれています。マタイでは「青年」、と書かれていますし、ルカは「議員」、としています。よくこの箇所を指して、金持ちの青年の話と言われます。富める若者であったということです。
いずれにしても、主イエスが、彼の質問に応える中で、この若者の求め方が問題として浮かび上がるのです。ひとつには、永遠の命を、神からさずかるものではなくて、自ら、獲得するものとして追い求めているということです。
確かに、主イエスは、十戒の後半の戒めを示して、あなたも知っているはずだ、と言われます。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」(19)それらを守ることは、永遠に通じる道でもある。必要なものであります。しかし、聖書に「正しい者はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)とあるように、神のみこころを満足させるように、十戒を守れた人は、一人もいないのです。
「殺すな」について、山上の説教で主イエスが教えておられるのは、「ばか者」「愚か者」という人は、神のさばきを受けるというものです。(マタイ5:22)それは、人をさげすむ思いで見る、あるいは、この人は、神から見捨てられている、と見なしていくということです。この若者は、そのような思いすらも抱いたことがないのでしょうか。
20節「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言っています。
それに対して、21節で、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」とあります。「慈しんで」というのは、「愛されて」ということです。主イエスは、彼をじっと見つめて、愛された。この若者に対する愛をもって語られた。ここでいう愛とは、神の愛であります。それは、痛みを伴う愛ということです。
主イエスはここで、その存在に痛みを覚えるほどに、彼を愛された。そして語りかけられたのです。21節「あなたに欠けているものが一つある。」いったい何が欠けていたのでしょうか。これはとても大切なことです。
主イエスは、語りかけられます。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。」
読み方によっては、彼には、施しが欠けていたということになります。しかし、そうではない。彼に欠けていたのは、単なる施しではない。学者たちが口をそろえて言うように、ここに、主イエスは、最後に一つこうすれば、永遠の命が獲得できる方法を語っておられるのではないのです。
しかし、意味のないことを語っておられるのではない。確かに、ここに、天に富を積むことの幸いが語られているのです。あるいはまた、自分は自由だと思っていたであろうこの人が、実は、財産にとらわれて生きていたことが明るみに出されているのです。財産とは、土地とも訳せる。大地主だったとも推測できます。
ではいったい、彼に欠けていた一つのことは、何でしょうか。ここで私どもが、聞き落としてはならないのは、主イエスの最後の招きの言葉です。「それから、わたしに従いなさい。」ここで、若者は、悲しみながら立ち去るのですが、決して主イエスは、彼を退けておられるのではないのです。主イエスは、最初に彼がひざまずいて尋ねた質問に、確かに答えて答えておられます。
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
「それから、わたしに従いなさい。」
主イエスは、「わたしに従いなさい。」と招いておられるのです。しかし、彼はここで、主イエスに従うことができなかった。彼は、もとより、永遠の命を相続する極意が得られれば、それで終わりで、主イエスの弟子として従う決意はなかったのでしょうか。
ある神学者は、この若者の、神に対するズレた姿勢を指摘します。この若者は、主イエスに、「善い先生」と呼びかけていますが、旧約聖書の伝統からして、この「善い」という呼称は、本来神にしか用いない称号である。ですから、彼は、主イエスから、それは本来神にしか用いない言葉である、と指摘される。あなたは、わたしを十分に知らないで、そのような神に対する呼びかけを用いるのは、おかしいではないかということです。
実際彼は、「善い先生」と呼びかけた、その主イエスから、まさに「神の子イエス・キリスト」から、「わたしに従いなさい」と招かれたのに、自らをあずけて従えなかった。
彼は、主イエスの招きが、どのようなものか、わからなかったのでしょう。「わたしに従いなさい」との招きに、飛び込むようにして自らをあずける幸いを、このときは知ることができなかったのです。
悲しみながら立ち去るこの若者以上に、主イエスが、深い悲しみをもって祈りながら、見ておられたことを知るべきではないでしょうか。彼に対する愛は、ここで終わりではない。見捨ててはおられないのです。
27節「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
確かに、彼が立ち去った後、嘆いておられます。25節「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」しかし、私どもは、この人のように財産をもっていないから、救われやすいと言えるのでしょうか。
「人間にできることではないが、神にはできる。」と、主イエスは、弟子たちを見つめて言われた。私どもを見つめて、愛をもって語りかけておられるのです。自らが、信仰をもって信じていることについて、もともと人にはできないことであると知り続ける必要があります。自分では信じることはできなかった者が、主イエスの恵みによって救われた、と心に刻んでいるかということです。「人間にできることではないが、神にはできる。」
今日は、一日修養会でもあります。修養会は、キリスト教会が、神によって生み出されたことを信じる思いを確かにされていく日、さらにはキリストに従う思いを新たにされる日ではないかと思います。
私どもの教会も、主なる神によって創造された、主イエスの恵みによって生み出されたことを信じて、主に従っていきたい。「わたしに従いなさい。」という主イエスの招きは、この朝も語られています。礼拝ごとに、語りかけられているのです。
主イエスは、「それから、わたしに従いなさい。」と招いておられます。「それから」とは、私どもをとらえて離さないものから解かれ、「それから、わたしに従いなさい」と言われる。あなたの存在のすべてをゆだねることができる、と主は言われるのです。
私どもに欠けているものは、何でしょうか。欠けているというのは、言い換えるなら、神の助けを必要としていることです。生涯を通して、主イエスに従うことです。最期まで主イエスに従うことは、自分の力ではできない。主イエスに従うこともまた、神からの賜物です。自分のためにだけ生きることで終わろうとする私どもが、主イエスに従い、神のみこころを祈り求めて礼拝生活を歩んでいくとするなら、それこそが、人にはできない救いであります。礼拝生活を通して主イエスに従う歩みに、永遠なる神への道がすでにはじまっているのであります。
Comentarios