【降誕節第2主日】
礼拝説教「仕える人」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 9:30-37
<讃美歌>
(21)26,206,367,268,64,27
新年最初の礼拝において、先ほど、日本基督教団信仰告白をご一緒に告白しました。
このことは、私どもの教会がどなたを信じて生きているかを、改めて明確にすることで もあります。
日本基督教団信仰告白全体をひと言で語ることはできませんが、あえて短く言うとした ら、主イエスのお働きは、結局のところ、主イエスの十字架と復活の救いにつきる、とい うことです。ですから、とても簡潔に書いています。とくに、使徒信条において「ポンテ オピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり三日目 に死人のうちよりよみがえり」と告白されています。
今日与えられています箇所で、主イエスは、まさに、ご自身の十字架と復活を前もって 弟子たちにお話しになっています。しかし彼らは、その時には、十分に理解できなかった のです。
30節にこのように記されています。「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。 しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。」
この言葉に、何もお感じにならないかもしれない。しかし、明らかに注目すべきは、ガ リラヤを通過された、ということです。主イエスが、育たれ、伝道の拠点とされていたと ころが、通過する場所になったということです。このことが何を示しているかと言います と、それは、いよいよ人々の罪の赦しのために十字架にかかる、その歩みをお始めになっ たということです。
そのことは、「人々に気づかれるのを好まれなかった。」ということからも分かります。 それは、主イエスは、人々に気づかれれば、人々の求めにさらされるのです。その求めは、 罪の赦しではないのです。信仰を与えてくださいという、祈りでもない。その求めの主た るものは、病の癒しです。確かに、主イエスはそれがどうでもいいとはされなかった。そ の痛みに寄り添って行かれました。病に苦しむ者を憐れみ、癒された。しかし、この後、 ただ一つの例外を除いて、病の癒しをなされることはなかったのです。
それは、バルテマイの癒しです。(10章)
目が見えるようになったバルテマイは、「なお道を進まれるイエスに従った。」とあり ます。それは、単なる病の癒しではないということです。バルテマイは、見えるようにな った目で、道を進まれる主イエスに従った。そして、彼はその目で、主イエスの十字架と 復活を目撃することになった。主イエスの十字架の死と復活の証人となったはずです。で すから、バルテマイの癒しは、ただ一つの例外でありながら、また、父なる神の備えた道 を歩まれる、神の独り子主イエスの十字架と復活の道に、沿うものとなっているのです。
31節には、はっきりと、なぜ、人々に気づかれるのを好まれなかったか、記されてい る。「それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日 の後に復活する』と言っておられたからである。』
「言っておられた」とありますが、これは、「教えておられた」と訳すことができます。 しかし、彼らは、悟ることができなかった。イザヤ書 43 章 19 節に神の語りかけがありま す。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれ を悟らないのか。」私どもは、なかなか芽生えていることを悟ることができないことがあ る。
さて、ロウバイ(蝋梅)という花を知っておられるでしょうか。枯れ葉を落としたそこ に、新芽を出す前に、冬に花を先に咲かせます。英語では「Winter sweet」と呼ぶそうで、 すてきな名前です。
聖書にも、アーモンドの木のことが記されています。アーモンドの木は、あめんどうの 木と訳されていたこともあるのですが、冬の間に、木々が葉っぱを落としたときに、先に 花を咲かせます。熱心さや注意深さの象徴とされるようです。アーモンド(ヘブライ語で シャーケード)は、見張るという意味がありますから、いかなる時にも私どもを見張るよ うにして見守ってくださる神の前に、目を覚まして生きていくようにという勧めの意味合 いもあるのです。
弟子たちは、すでに芽生えていること、主イエスの十字架と復活による救いをまだ、悟 ることができませんでした。そのようなきに主イエスは、弟子たちに、集中していかれた。 主イエスは、何とかして教えようと、何か、不思議な奇跡をお見せになったわけではない のです。彼らを赦して、神の時にゆだねていかれました。ここに、主イエスの罪の赦しを、 すでに見ることができます。
後に弟子たちは、主イエスの愛に気づくときが来るのであります。彼らも、やがて神の 働きによって、主イエスの救いを信じて、その救いに生きる者とされていったのです。弟 子たちの姿というものは、特別なものではなく、私どもの姿として、読みとるべきであり ます。少なくとも、マルコ福音書は、自分たちの教会の姿として記しているのです。
この箇所が伝えていることは、弟子たちの罪深さでもあります。それは具体的に言いま すと、主イエスが、もっとも大切な、ご自身の命をかけた話をされているのに、その道す がら、何を考えていたかということです。
「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を 議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いか と議論し合っていたからである。」(33節、34節)
主イエスが、いのちを注ぎ出すように、語りかけておられるのに、違うことを考えてい たということです。しかも、自分たちの中で誰がいちばん偉いかと議論していた、という のです。
いちばん偉くなりたい、と願う弟子たちに、主イエスは、情けない、今まで何を聞いて きたのか、としりぞけられたのではないのです。むしろ、彼らにいっそう、寄り添って教 えられました。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさ い」(35)と教えられたのです。
そして、すべての人に仕える者になる道を、具体的に教えられました。彼らの真ん中に、 ひとりの子どもの手を取って立たせ、そして、その子を抱き上げて言われました。37節 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるので ある。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け 入れるのである。」
「抱き上げて」と訳されている言葉は、「抱きかかえて」と訳せます。弟子たちに、こ のような小さな子どもを、わたしの名のゆえに受け入れることは、わたしを受け入れ、父 なる神を受け入れることになる、と教えられました。
「子ども」というのは、大人と子どもという意味だけではない、そこには、いと小さな 者という意味合いが込められています。弟子たちが、自分たちの目から、小さな存在に見 えるそのような人を、主イエスの名のゆえに受け入れていくことが求められています。主 イエスがその人のためにも、十字架におかかりになり、よみがえって愛して支えておられ る、そのことを信じるがゆえに、受け入れ共に生きよ、と言われるのです。
しかし、弟子たちは、主イエスがお命じになった言葉に従う中で、自分たちが、支えて 受けいれるばかりではないことに、気が付いていったことでしょう。自分たちもいかに支 えられているかということです。自分こそ、小さな者であって、祈り支えてもらわなけれ ば、生きていくことはできない、ということに、弟子たちは気が付いていったのではない か。マルコの教会の人々は、そのように教えられていったのではないかということです。
マルコの教会の人々は、自分たちこそ、いとも小さな者であることを教えられる中で、 人々の真ん中で、抱きかかえられたこの小さな者に、自分たちの姿を見るようになったは ずであります。主イエスに抱きかかえられている、その安堵、平安を知るようになったと いうことです。
私どもも、互いに、神の目からは、いとも小さな者であることを教えられ、祈り支える 幸いに導かれているのです。新しい年の歩みも、主イエスに抱きかかえられている、その 安堵、平安に生かされること信じてきましょう。
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