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2022年1月23日(日)聖日礼拝

【降誕節第5主日】


 礼拝説教「神の祝福」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 10:1-16


<讃美歌>

(21)26,208,127,393,64,27


 10章に入りますが、少し読み進んだ10章32節には、「一行がエルサレムに上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。」とあります。この言葉は、決して読み落とせない大切な箇所です。明らかに、主イエスが、十字架の苦難をその身に引き受け、三日の後に復活されるために、エルサレムに上って行かれる途中、主イエスは弟子たちの先頭に立って進んで行かれたのです。そこへと至る今日与えられている箇所には、結婚のことについて記されているのです。あるいは、離婚についての質問に主イエスが答えておられ、子どものことについての主イエスの教えが記されています。さらには、財産のことについても主の教えが続いています。

 考えてみれば、結婚、子ども、財産の問題は、人が生きていく上で、いつも関わってくることではないでしょうか。それらがすべてではないにしても、私どもにとっては大きな課題であります。あるいは、言葉を換えて、家庭、将来、家計とすれば、もっと身近であるかもしれない。家庭のこと、将来のこと、どうやって生計を立てて生きていくかは、自分ではどうにもならないときがあるので、祈りを必要とするのです。私どもの祈りは、その意味では、暮らしのことや、将来のこと、家庭のことについての祈りが大部分であるかもしれません。

 いずれにしても、マルコ福音書が、いよいよ十字架へと向かわれる主イエスの歩みの直前に、ここにある結婚、子どものこと、さらには財産の問題を記しているのは、信仰生活と切り離して考えなかったということです。主イエスに従おうとするときに、身近な問題をこそ、その解決を祈り求めながら、健やかに歩むことを祈り求めていったということです。礼拝をささげて主イエスの御言葉を聞き、祈ることで生きていった。そのように祈りをささげて生きる礼拝生活に、私どもも連なる者とされていきましょう


 信仰生活を歩む中で、しばしば私どもが経験することですが、いざとなると、主イエスの教えによって動くよりも先に、きわめて人間的に動いてしまうことがあります。ある程度余裕があるときには、主イエスならどうなさるか、と祈り求めるかもしれないのですが、大きな問題にぶつかるとそうではないことがあります。そこでこそ、祈りを必要としている。礼拝に出席して、祈り求めるべきそこで、そうできない私どもの弱さがあるのではないでしょうか。いやむしろ、そのような弱さ、罪深さを告白しているなら、ある意味で主にあって強いと言えるでしょう。しかし、そのような、信じていることと生活が分離するということに気付かないでいるところに、ほんとうの意味で、私どもが見据えるべき罪があるのではないかと思います。

 なぜそのようなことになるか。それは、主イエスの教えの聞き方、が問われているのです。その意味では、今日の箇所は大切です。


 ファリサイ派の人々が、2節「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」と、イエスを試そうとして質問しています。

 質問の背景には、次のような掟がありました。申命記24:1「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手にわたし家を去らせる。」恥ずべきこととは、夫の側からの身勝手な理由まで含まれて解釈されていたというのです。極端な言い方をすれば、妻が気に入らなければ、適当な理由を付けて追い出せたということになります。

 確かに当時、そんな身勝手な理由ではいけないと考えることもあったでしょう。難しい課題に対して、ファリサイ派は、律法主義的に、どこまではゆるされるか、と主イエスに問うているのです。言い換えれば、どこまでは破ってもいいか、と探っている。試そうとしたということは、追い出されていく妻たちに心を痛めていたのではなくて、主イエスがどう答えるかで、反論しようとしたということです。

 しかし、主イエスは、彼らとは全く違うところに立って、語っておられます。それは、神の御心はどこにあるかということです。

 その違いは、5節によくあらわれています。「あなたたちの心が頑固なので、」という言葉です。これは、とても間違いやすい箇所だとある神学者は指摘しています。神が妥協しておられるのではと誤解されやすいからです。

 「あなたたちの心が頑固なので」とは「あなたたちの頑固に対抗して」という意味です。「頑なさをはっきりさせるために」と訳せるのです。

 頑なさがはっきりすれば、どうすべきか。それは、本来語られている、神の教え、結婚への神の祝福の教えに帰るべきだということです。

 

 結婚式を司式する時に、いつも話すことは、「神が結び合わせてくださった互いだということ」そのことを信じて生涯を共にしてほしい、ということです。それと共に、私事ですがと、自分も神の憐れみなしには、ここまで来ることはできなかったと伝えます。

 しかし有名なキリスト者の中にも、離婚を経験している人がいます。よく知られていることですが、内村鑑三がそうです。たとえ、夫婦の関係がうまくいかなかったとしても、そこになおも神の憐れみがあるのです。

 神の御心の通りに歩めない私どものために、なおもそこに神の憐れみを与えて導くために、主イエスは、私どもの先を歩みぬかれた。主イエスが私どものために苦しんでくださったことを感謝をもって心に覚えていきたい。私どもに代わって神にさばかれ、十字架に死なれましたが、主イエスにとっては死がすべての終わりではなく、死からよみがえられて、私どもの主となってくださったのです。

 ですから、主イエスは、いまもなお、なかなか思い通りに行かなくて神の憐れみを求める私どもに、赦しを与えて将来をもたらしてくださるのです。

 

 主イエスは、弟子たちに思いを込めて、また、御自身のもとに来る者を限りなく愛して語られました。14節「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」ここで主イエスは、何をなそうとしておられたのか。弟子たちは何を遮ったのでしょうか。

 まず、「子ども」と訳されている言葉を考えたい。

 「子ども」と聞いて、皆さんは、何歳ぐらいの子どもをここで考えているでしょうか。そのことは、主イエスの言葉の理解にも関係があります。

 14節以下「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

 子どもの、無垢なことや純粋さを考えるかもしれません。しかし、決して、福音書は、子どもを賛美しているのではありません。

 ここで「子ども」と訳されている言葉は、幼児から12歳ぐらいまでの子どもに用いられます。

 最近の子どもたちを見て、どう思われるでしょうか。ある意味で、昔と変わっていないかもしれない。私どもが、むしろ、間違って子ども世界を、平和で無垢なものとして、ゆがめて美化しているのかもしれない。彼らこそ、神の救いを必要としている。そのことを知らずに、子どもの世界の闇を見ようとしないでいるのかもしれないのです。

 私どもも、神様がご覧になれば、それぞれ子どもであることを、思い起こす必要があります。

エフェソ書5章1-2節「あなたがたは、神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」「あなたがたは、神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。」具体的には、キリストの愛によって動かされて生きていくようにということです。それは、自分の思いにだけ動かされていくことから解かれて、主イエスに救われて、主イエスの御言葉によって、主の思いに動かされて生きることができるのです。

 

 主イエスは16節で、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されています。そのことは、子どもたちを連れてきた人々が願っていた以上のことです。

 子どもたちは、いずれの年齢であっても、ここに連れてこられた存在です。ただ、神の祝福に身を委ねる存在です。決して、無垢で罪がないということではないのです。

 主イエスは、祝福を与えるためにこの世に来られました。主を信じる弟子たちにこそ、その祝福を与えるために来られた。そして、彼らのために、その罪の赦しを成し遂げるために、主イエスしか通れない苦難にその身を委ねるためにここに歩んでおられるのです。ですから、その祝福の道を遮ろうとした弟子たちを厳しく戒められたのです。


 礼拝の終わりに、祝祷があります。祝福とも呼ばれます。礼拝の祝祷は、主イエスが、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された、そのこととつながっています。ある英語の訳は、「祝福を与えられた」と訳している。牧師は、祷福の時、必ず手を挙げ、祝福します。それは、ここに主イエスが、手を置いて祝された、その手を示して手を挙げる。主イエスが抱き上げ、祝福を与えられることに、礼拝ごとに、神に赦され救われた子どもとして、身を委ねるのです。

 神の祝福に身を委ねるということは、自分の力で救われることをやめるということです。

 弟子たちはやがて、祝福とはどういうことか、理解できたでしょう。主イエスの十字架に際して、主イエスを否定して逃げ去り、道を見失った彼らです。

 その弟子たちが、やがて復活された、祝福そのものである主イエスに出会った。その命を受け継ぐ者とされたのです。彼らは、主イエスの罪の赦しによる救いと言い換えてもいい、神の祝福の重さを知って生きたのです。主イエスによって与えられる祝福が、重くまた、誰からも奪われないものであることを知り続けたのです。

 しばしば、主イエスの憤りを思い起こすような、主イエスの言葉によって戒められる経験を、聖霊の働きによってしたでしょう。そのたびごとに、彼らは、心を砕かれて、主イエスの思いに生かされていったのです。闇が光に吸収されてしまうように、そのかたくなな心を照らされ、主イエスの祝福に満たされて、信仰をもってその身をゆだねていったのです。


 エフェソ書に「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(1:23)とあります。キリストの教会は、主イエス・キリストがその命をもって買い取られた教会です。キリストの教会に、主イエスの祝福が満ちているのです。

 弟子たちと共に、マルコの教会と共に、ただ神の祝福に身を委ねる子どもとして、喜んで主イエスが置いておられる祝福の手に、頭(こうべ)を垂れたい。その主イエスの祝福の手は、慰めと赦しに満ちた手であります。私どもに代わって、差し貫かれた傷跡のある御手をもって、祝福してくださるのです。 



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