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2022年1月16日(日)聖日礼拝

【降誕節第4主日】


 礼拝説教「互いに平和に」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 9:42-50


<讃美歌>

(21)26,19,132,356,64,27



 今日与えられています箇所は、42節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と語り始めます。とても厳しい、戸惑うほどの主イエスの御言葉です。

 礼拝では、マルコ福音書を少しずつ、読み進んでいます。

 例えば、前々から、一生懸命教会の礼拝へと誘い、やっと来られた友人と共に出席しているとして、今日の箇所だとしたら、よかったと思うでしょうか。

 あるいは、今日はじめて礼拝に来られた方がおられるとして、私どもが、他の箇所の方がよかったと思うかどうか、です。

 この箇所は、ひとつには、間違って理解されやすい箇所だと思います。その意味では、ふさわしく聞き取るように、共に教えられる必要があるでしょう。

 しかし同時に、あまりにも、どう聞き取ったらいいのか、私どもの理解を超えた教えが記されているので、かえって、耳を傾けやすいとも思います。その意味では、かえって、はじめて聖書を手にする人の方が、ふさわしく聞き取ることも十分にあるのです。


 信仰は、元々私どもの中から生まれるものではなくて、授けられるもの、与えられるものであります。その意味では、今日の箇所においても注意して、ふさわしく信仰を与えようとしておられる神の声に耳を傾けていきましょう。

 かえって、比較的に、理解しやすいと思える箇所ほど、自分たちの理解の中で聞き取っていないか、注意する必要があります。自分たちの元々持っている考えで、すべてを理解しようとすることでは、今日の箇所でも、解説を必要とする言葉があります。

 それは、「地獄」と訳されている言葉です。これほど、人がその思い思いに理解する言葉はないかもしれない。その意味では、元々の聖書の言葉で、ゲナーとしておいた方がよかったかもしれない。ゲナーは、エルサレムの南の谷、ゲー・ヒンノムの谷がもとになった言葉です。その谷では、かつて、偶像に礼拝がささげられたことがある、その谷です。そこに神の裁きが下った。偶像礼拝をやめるように禁じられたということです。ですから、その谷は、神の恵みの外をあらわしています。神の裁きの場所として語られているのです。

 ですから、ゲナー(地獄)は、いわゆる死んでからいくところということよりも、ここでは、神の恵みの外に出てしまうことへの警告をしているのです。


 迷信による地獄の考えは、むしろ、あらためられる必要があるのではないでしょうか。それは、こういうことです。主イエスはここで、神の恵みが支配する神の国に相対して、滅びが支配するところをゲナー、地獄と呼んでおられる。ですから、ここでいう地獄は、私どもが生きていく中で、滅びが支配するところが、隣り合わせに存在しているということでもあるのです。 


 私どもは悲惨な事件が起こるたびに心を痛めます。少し前にも、自ら火を放って多くの方が命を失うということが起こりました。放火した人自身も命を失ったようです。人がおぞましい罪を犯すことを主は知り抜いておられるはずです。主イエスの御言葉を聞きましょう。

43節「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。」

 もちろん主イエスは、ここで、実際に切り落とすように言われているのではない。教会もまた、実際に切り落とすかどうかというようなことではないことを十分に受けとめてきました。しかし、ひとりの人が、取り戻せない痛みを多くの人々とその家族に与え、生涯、償えないものを起こしてしまうよりは、たとえ片方の手が失われても、よほどその方がよかったのではないかと思ってしまいます。


 主イエスの、まるで火を放つような厳しい言葉を聞きながら、人として生きることをやめてはならない、そのような深い神の言葉が聞こえてきます。

 主イエスは「塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。」(50)と言われます。塩が塩気をなくすことはあり得ないことです。しかし、人が人でなくなるようなことがあり得るのではないでしょうか。


 この箇所の言葉は、直接には、弟子たちに語られています。あるいは、初めの頃の教会が、信じて大切にした箇所です。神から授かった信仰を、自分の体以上に大切にしたのです。与えられた体のいのちよりも大切なものとして、神様から授けられた信仰に生きたということです。

 「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(50)とあります。塩を持つことが、互いに神からの平和に生きる道だというのです。ではどのように、塩を内に持つことができるのでしょうか。

 主イエスは「人は皆、火で塩味を付けられる。」(49)と言われます。ここは昔から理解に苦しんできた箇所です。火で塩味を付けるというのはどういうことでしょうか。

 火とは、ある神学者は、主イエスのことだと言います。主イエスの御言葉の語りかけによって、すなわち聖書によって与えられる、神の御言葉によって私どもは絶えず味付けられていくというのです。互いに主の御言葉によって心に塩を持ち、そして、互いに神様からの平和に生きる者とされていくことができるのです。それは、礼拝においてこそ与えられている恵みです。

 礼拝の恵みによってこそ、信仰者として、キリスト者として生きることができるのです。神の恵みの支配が、礼拝からはじまるということです。神の恵みの支配は、聖書では神の国と呼ばれます。恵みは、私どもにそれを受ける資格がないのに、神が憐れみをもって与えてくださるものです。教会を恵みによって導いてくださるのは、主なる神であります。主イエスがその御言葉をもって導いてくださるのです。


 主イエスは、42節で、「わたしを信じるこれらの小さな者」と語られました。「わたしを信じるこれらの小さな者」というのは、小さな信徒とも訳されます。あるいはこの「小さな者」とは、「子ども」のことと理解することができます。37節「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 しかし、子どものことだけではない。41節からの続きとして読む必要があります。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」そのような「わたしを信じるこれらの小さな者」です。言うなれば弟子たちの中の小さな者、であります。私どもの目から、小さいと思える、そのような存在を軽んじていくときに、それはまた、神を侮る道を進んでいくことになる。小さいというのは、私どもの目からは小さいのであって、神の目には、実に大きなかけがえのない存在であるのです。


 自分たちを大きく感じて、小さな存在を軽んじる立場に立つときは、42節の「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」という言葉は、恐ろしいかもしれない。しかし、自らが小さな者であることを知り、罪深いけれども赦されていることを信じるときに、それは、神の深い愛を示す慰めに満ちた言葉であります。いとも小さな自分を、それほどまでに思いにかけて愛してくださる、神の思いに触れるからです。


 私どもは、ひとりひとり、小さな者であります。互いに、そのことを教えられて生きるときに、神の目からは、むしろかけがえのない大きな存在であることを知り続けるのです。そのことが、互いに神様からの平和に生きる道であります。

小さな者とは、神の恵みなしには、生きられない小さな者ということです。神の恵みに守られた小さな者は、互いが、自分よりもすぐれた大きな者であることを教えられていくのです。どうか互いに、神の恵みに守られていることの感謝を抱いて生きていきましょう。 そのようにして主の恵みを味わうことは、主の御言葉によってこそ与えられるのです。

主の愛の語りかけを信じて、感謝をもって恵みを味わう者とされていくときに、私どももまた、主の愛の語りかけに生きる者となり続けていくことを信じて従っていきましょう



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