【待降節第2主日】
礼拝説教「沈黙から賛美へ」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書1:57-66
<讃美歌>
(21)26,12,241,169,65-1,29
12月の第1聖日の礼拝を献げることができますことを、主なる神に心から感謝します。先週からアドベントが始まっていますから、今日はアドベントの第2聖日です。
アドベントは到来という意味があります。主の降誕という到来を祝うために礼拝を重ねて心を備えていくときです。しかし、アドベントの到来には、もう一つの意味があります。それは、主イエス・キリストが再び来てくださる、再臨の意味での到来です。
再臨というのは、主が救いを完成してくださるときですから、いつかは誰にも分かりません。先のことだとしても、主なる神は時を超えておられる方ですから、私どもが礼拝で出会う主は、再臨の主でもあるのです。地上の生涯を終えて、天のふるさとに召される時にも、私どもはそこで再臨の主にお目にかかると信じることができるのです。いずれにしても、主なる神に直接お会いする時が来ることを信じて、地上の生涯を歩んでいく、その思いを確かにされるときが、アドベントでもあります。そして、アドベントは、新しい年へと思いを向けていくときでもあります。
季節がありますが、教会の暦の季節を感じて生活することは大切です。今はクリスマスの季節と言っていいでしょう。キリスト教会の暦で、クリスマスの祝いの時がいつまでかは、一般にあまり知られていないと思います。12月25日でクリスマスが終わると思われているかもしれません。しかし、クリスマス礼拝をご一緒に献げて、クリスマスの恵みと共に新年を迎えるのが教会の暦です。
私たちが新しい年をもたらすのではなくて、主なる神が新しい年を与えてくださるのです。しかも、主イエスが私たちの救い主となってくださったことを信じる喜びをクリスマスにもう一度与えてくださって、その喜びで背中を押すように、新しい年を迎えさせてくださるということです。
ですから、クリスマスのお祝いの期間は、12月25日から始まります。今年で言いますと、クリスマス礼拝の12月25日(日)から1月6日(金)の公現日までがそうです。公現日は、東方からの三人の博士たちが主イエスにお会いしたことを記念する日です。
アドベントは4週間、クリスマスの祝いはおよそ2週間、合わせて6週間に渡って、私どもは主の到来を感謝して、神をたたえるときを持ちます。それほどに、無くてはならない、心に深く刻むべき主の出来事であるからです。主がなしてくださったことを心に刻んで神を賛美することは、私どもにとって確かな支えとなるのです。
今日与えられています箇所に、ザカリアとエリサベトの夫妻が登場します。彼らも、神を賛美することの恵みをいただきました。そして、生涯にわたって、たえず主を賛美する礼拝を献げて生きていきました。私どもも、その恵みの道に生きていきたいと願います。なぜ、ザカリアとエリサベトは、主を高らかにたたえるようになったのでしょうか。
ザカリアもエリサベトも、当時としてはずいぶん年を取っていて、子どもが与えられるような年齢ではなかったようです。でも神様は、ザカリアが神殿で祈っている時に、子どもが与えられると伝えました。その子は、救い主を助ける働きをする人になる。「エリヤの霊と力」(1:17)を持つと天使は伝えたのですが、エリヤは預言者の代表のような人ですから、その子が預言者として生まれるということです。
天使が子どもの誕生を伝えたその時に、ザカリアは信じることができなかった。当然の反応かもしれません。しかし神様は、ザカリアに長い沈黙を与えられました。ザカリアの口がきけないようにされたので、ザカリアは、子どもが生まれるまで話すことができなくなったのです。
「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ」(57)とあります。
男の子が生まれた時に、近所の人や親戚の人たちが集まってお祝いをしてくれました。「喜び合った」(58)のです。そして、祭司の家系の父、ザカリアの名前を継がせようとしました。それは、当時としては、普通のことでした。
でも、エリサベトは反対しました。天使が、「その子をヨハネと名付けなさい。」(1:13)と命じていたからです。祭司であるザカリアのあとを継ぐためではなくて、神様の特別な働きのために生まれてきたことを信じていました。その子はやがて洗礼者ヨハネと呼ばれますが、預言者として救い主を助けるために生まれたのです。
お父さんのザカリアにも、周りの人たちは聞きました。
きっと、自分のあとを継がせたいと思っているにちがいないと周りの人たちは考えていたからです。
ザカリアは話せないので、筆談と言って、字を書く板を持ってきて書いてもらった。「その子の名はヨハネ」(63)とザカリアが書きました。
すると、ザカリアの口が開いて、話せるようになった。
それでどうしたかというと、まず「神を賛美しはじめた」のです。
聖書の原文を直訳すると、「ほめたたえよ、主なる神」と賛美しました。
よく考えてみると、長い沈黙がザカリアに与えられました。どれくらいかと言えば、エリサベトに命が宿り、ヨハネが誕生するまでの少なくとも10ヶ月ぐらいの期間です。その長い沈黙のあとで、最初の言葉は何だったでしょうか。それは、「ほめたたえよ」という神様を賛美する言葉でした。
私たちも、聖書の御言葉をこうしていっしょに聞いています。
御言葉を聞いている時は沈黙します。
沈黙のあと祈りますが、その祈りは主を賛美する言葉からたいていはじまります。「主の御名を賛美します」とよく祈ります。
主の御名を賛美する、「主の御名」というのは、神様の実体とご性質のことですから神様のことを意味します。では「主を賛美する」というのとどう違うかと思われるかもしれません。「主の御名」は、神様そのものだけではなくて、「御名」は神様がその愛をもってなさったお働きをも意味します。ですから、「主の御名を賛美します」というのは、主なる神が私どもと一緒におられて、神の愛をもってお働きくださっていることをたたえるのです。主イエス・キリストの父なる神をたたえることですし、主イエスの救いのお働きを信じて賛美することです。
ザカリアがそうであったように、教会生活の中で、主を賛美することからはじめていきましょう。そこにこそ、主は働きかけてくださいます。それは、この礼拝から生活をはじめていくことでもあります。礼拝をはじまりとして生きていくことを祝福して、神様が、私たちを喜びに生かしてくださるのです。神様から来る喜びで背中を押すように、毎日の生活を助けてくださるのです。そのためには、感謝を忘れていないか、振りかえる必要があります。
先ほど、主なる神が新しい年へ向けて背中を押してくださる、と言いました。主イエスが救い主として、生きてくださっているので、私たちは感謝して、新しい年へと向かっていくことができます。新しい年を与えてくださるということはまた、今日の一日を主が与えてくださったということです。
主イエスは、私どもの罪を赦して受け入れ、日々に救いに生かしてくださるのです。その恵みは、救い主以外には与えることができない恵みです。だから、感謝を忘れてはならないのです。神に感謝することから、周りの人への感謝も生まれてくるのです。
主イエスが私たちの救い主になってくださったことを感謝して神を賛美しつつ、礼拝を献げていく恵みの道に、日々に生きていきましょう。
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