【待降節第4主日】
礼拝説教「隠れた奇跡」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書2:1-7
<讃美歌>
(21)26,13,233,256,65-1,29
与えられています箇所には「彼らがベツレヘムのいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(6-7)とあります。
飼い葉桶は、牛やロバが飼い葉、つまり食べ物を食べるための桶、入れものです。本来、赤ちゃんを寝かせるためのものではないのです。まして、救い主がそこに寝かせられることを誰が想像したでしょうか。
しかし、主イエスが「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」られたことは、聞く者たちに大きな慰めとなりました。
ルカによる福音書をはじめに受け取った、初代教会のキリスト者は、自分のような者と主イエスが共に生きてくださる喜びと重なるようにして、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」られた主イエスを信じ愛していったのです。
私のような者の中に、主イエスが共に生きてくださる。
そのことは、本来、主イエスが住むにはふさわしくない場所である、自分のような者を、主イエスが住む場所としてくださったということです。
私どもを、主イエスが宿る場所としてくださることは、神の憐れみによるのです。
私どもを、主イエスの救いによって赦し、受け入れてくださるからです。
「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」られた主イエスのお姿に、神の憐れみが表れているのです。
自分のような者と共に生きてくださることは、飼い葉桶に眠られることよりも、もっとあり得ないことです。
そのような神の憐れみを信じて、主イエスを愛する信仰生活に励んでいきましょう。
ある友人の神学者が、この箇所について書いているのですが、何も奇跡らしい奇跡が起きていないというのです。
先に記された、ザカリアに子どもの誕生が知らされたところでは、天使が登場します。やがて預言者となるヨハネの誕生を、ザカリアは神の使いから告げられたときに、信じることができませんでした。
そのために、神の御業が実現するまで口がきけなくなりました。
しかしここでは、宿屋に迎えなかった人々に、何かが起こったわけではありません。
前もって、宿屋を準備するような人脈もなく、権力も持っていなかったヨセフとマリアを、主なる神はそのままにしておかれました。
しかし、そこに、福音の輝きがあるのです。
それは、主は私どものような者を、乏しい者を用いてくださる、そのしるしとなっているからです。
つづく2章8節からは、天使が羊飼いたちにあらわれて、救い主がお生まれになった、大きな喜びが告げられています。
でもここでは、天使は登場しないのです。
私どもの日常と同じような姿と言ってもいいのです。
しかし、私どもの日々の歩みの中に、天使があらわれなくても、主は確かに働いてくださっているのです。何か奇跡と呼ぶようなことが起きなくても、私どもの日常のただ中を、主はご自身の恵みの場所としてくださるのです。
主は、私どもの日々の歩みのただ中に、ご自身の救いの恵みを働かせてくださっているのです。
確かにベツレヘムは、救い主の生まれた日、いつもと変わらない姿であったかもしれません。
しかしある神学者が書いているように、天においては、救い主が地上に降誕されたので、大きなどよめきがあったはずです。
天を動かすようなどよめきと共に、主をたたえる礼拝が献げられていたのです。
日々あまり変わらないかに思える、私どもの歩みがあります。
しかし私どもの思いにまさって、天には大きな関心と祈りがあるのです。主が大きな関心と祈りをもって、私どものことを思いにかけていてくださる、それは、隠れた奇跡ではないでしょうか。
主日の礼拝の時、同じく天においては、礼拝が献げられているのです。
救い主をたたえる大きな賛美のどよめきと共に、主の恵みが私どもひとりひとりに及ぶように、そしてすべての人に与えられるように、天において篤い祈りが献げられているのです。それは、神の憐れみによるのです。主が憐れみの御心をもって、私どもを思いにかけてくださっていることを信じて、私どもも日々に共に生きている方たちを思い、祈りをもって生きていきましょう。
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