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2022年12月11日(日)

【待降節第3主日】

 

礼拝説教「神の憐れみの心」

 願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書1:67-80


<讃美歌>

(21)26,15,237,451,65-1,29


 ザカリアの預言が記されています。預言というのは、神様の御心を伝えた言葉です。78節に「これは、我らの神の憐れみの心による」とザカリアは告白しています。「神の憐れみの心」は、神様が私どものことをお腹が引き裂かれるような深い痛みをもって心にかけてくださるということで、とても強い言葉です。主なる神が私どものことを思って、心を痛めておられる、それほどに御心にとめてくださっていることに思いを深めていきましょう。


 ザカリアは、預言したのですが、別な表現がゆるされれば、喜びにあふれて歌っているのです。生涯にわたる主の恵みの道が備えられた喜びを、ザカリアは歌います。そしてそのつきない恵みによって来てくださる救い主のことを、「あけぼのの光」(78)と言い表します。

 「これは我らの神の憐れみの心による。

  この憐れみによって、

    高い所からのあけぼのの光が我らを訪れ、

  暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、

  我らの歩みを平和の道に導く。」(78-79)

 「あけぼのの光」というのは、夜明けをもたらす光です。救い主イエス・キリストのことを言っているのです。私どもの暗闇に、主イエスが夜明けをもたらしてくださるのです。


 ザカリアは、さすがに神様でもこれはどうしようもない、と思える現実に、夜明けをもたらしてもらった一人です。ヨハネという子どもを神から授かりました。長年、ザカリアとエリサベト夫婦は子どもを与えられることを願っていました。しかしそのことが実現すると神の使いが告げたときに、すでに年老いていた自分たちにそれは無理だと、はじめは信じることができなかったのです。


 「死の陰」は、神様でもさすがに無理でどうしようもないと思える現実と言うことができます。どうしようもないと思えることがあるかもしれません。しかし、主は私どもの「あけぼのの光」であって、「死の陰に座している者たちを照らし」てくださるのです。


 主イエスは救い主として、私どもの罪を赦されて救われる道をひらいてくださった。それは、「死の陰」に夜明けをもたらしてくださったということです。神の御心とずれて、その関係が途絶えていた私どもに、救いがもたらされたことは、まさに私どもではどうしようもない「死の陰」に光がもたらされたということです。


 ザカリアは、喜びに満たされて語ります。

「主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」(77)


 誰が知らせるかというと、まずザカリアの息子、ヨハネがやがて成長して伝えると預言しているのです。ヨハネは成長して、洗礼者ヨハネと呼ばれ、救い主が働く備えをしていったのです。


 「罪の赦しによる救い」とは、ていねいに話す必要があります。

 それは、せまくとらえられるかもしれないからです。


 「罪」とは、元々、旧約聖書では、神との関係がずれているという意味合いです。そこからあらゆる悪しき思いと行いが生まれてくるのです。「罪」とは、神の御心にかなっていない一切のことです。

 ですから、「罪の赦しによる救い」は、主なる神が、神との関係がふさわしくない、一切のことに関わって働きかけようとなさっているということです。そのときにまず、私どもと神様との関係を正して、生きた関係、神様とつながった関係にしてくださる、そのような救いを与えてくださるのです。

そのときに、内臓が引き裂かれるような痛みを伴うということは、命を献げて救ってくださることを示しているのではないでしょうか。主イエスが命を献げて救いの道を切りひらいてくださることが、すでに指し示されているのです。


 主が私どもを赦すために、主イエスが私どもに対する裁きをその身に引き受けられたのです。そこには深い痛みが伴います。そのようにして、主は救いの道に導いてくださいました。

 「罪の赦しによる救い」は、主が私どものすべてを赦して受け入れ、ご自身のふところに抱いてくださることです。赦して受け入れるだけではない。神の救いに招き入れて、そこで、一つ一つ御心にかなうように、導いてくださるのです。

 救いの歩みは私どもの努力の先にあるのではありません。もちろん救われた者が、主に従うことができるように心に決めて努力することも大切です。しかしその努力もまた、主の救いの導きの中でのことです。主が働きかけてくださる恵みがあるから、私どもの努力もまた生まれてくるのです。


 「恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」(74、75)という御言葉も、私どもの「清さ」「正しさ」がまず求められているのではないのです。直訳すると「彼(主)の御前で、聖別と義において」となります。神の者として聖別して救ってくださるのは主の救いです。神が正しいとして与えてくださる義も、主イエスによって与えられます。ですから、主イエスの「清さ」「正しさ」に動かされて生きる恵みが語られているのです。

 主の救いは、罪を犯されなかった主イエスの清さとつながって生きることです。そこにこそ、私どもの清さがあります。


 また主イエスは、義なるお方で、すべて神の御心にかなっておられるのです。その正しさを私どもの一人となって、生きて見せてくださった。その主イエスの清さや正しさとつながって動かされる恵みは、この礼拝生活の恵みであります。

 そのような礼拝生活の恵みは、生涯にわたるものです。 


 主イエスは、私どもに夜明けをもたらし続ける、沈むことのない光です。主イエスは消えることがない光です。アドベントクランツには、光を灯します。クランツの光は燃え尽きますが、主イエスという救い主は、燃え尽きないお方、私どもの思いと命を超えて「神の憐れみ心に」よっ導いてくださるのです。

 「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。」(67)とあります。

 ザカリアが、神の憐れみの心を知って、喜びたたえることができたのは、聖霊に満たされたからです。私どもも、神の霊、キリスト霊である、聖霊に満たしていただくことができます。洗礼を受けるということは、聖霊をいただいて主と共に生きることです。(使徒2:38)聖霊に深く導かれて、主の救いの恵みをさらに知ることができるように、聖霊に満たされていくことを祈り求めていきましょう。聖霊に満たされることは、礼拝生活の中で、主の御言葉に心動かされていくこと、御言葉を信じて祈っていくことです。

 主の恵みのお働きによって、心を込めて主に従い、聖霊に満たされていきましょう。



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