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2022年11月6日(日)召天者記念日礼拝

【降誕前第7主日】

 

礼拝説教「私どもの将来」 

 願念 望 牧師

<聖書>

ヨハネの黙示録 21:3-5


<讃美歌>

(21)24,18,204,532,65-1,27


 召天者記念日礼拝は、主のもとに召された先達を覚えながら、私どもも、その足跡にならって生きることができるように祈りつつ献げる礼拝です。「私どもの将来」と題しました。

 私は「未来」という言葉と「将来」という言葉を区別して使うことがあります。信仰生活において先のことは、将来のこと、と言うようにしています。それは、「未来」は、いまだ来ない、と書きますが、「将来」は、まさに来たる、と書くからです。私どもにとって、先のことは分からないことだらけです。先のことを知りたいと思いますが、しかしすべてを知ることにはためらいを感じます。聖書も、すべてをご存じであるのは主なる神様のみであることを伝えます。たとえ私どもがすべてを知ったからといって、そこに救いがあるわけではないのです。

 すべてを知ることはできなくても、聖書の語る将来は、神の恵みによって、まさに来たりつつある将来であります。聖書は、主なる神こそが、私どもに将来をもたらしてくださることを希望をもって語りかけます。神様が何とかしてくださるはずだと信じていくときに、心の重荷をおろしていくことができるのです。


 ヨハネ黙示録が記された頃、キリスト教会は厳しい迫害の中にありました。先をまったく見通すことができませんでした。少し我慢すればよくなるというような希望は持てなかったのです。むしろ、ますます事態は厳しくなると考えるのが自然でありました。そのような時に、ヨハネという人が、神様から幻を見せられて、確かな希望の御言葉を聞きました。ヨハネは、キリストの言葉、すなわち神の言葉によって将来への希望を伝えました。それがヨハネの黙示録です。暗闇を歩くようなときに、将来から届く希望の光を伝えたのです。ヨハネ黙示録の御言葉によって、神様からの光が私どもに差し込んでいるのです。


 日本の教会では難しいのですが、ヨーロッパの教会では教会を東向きに建てる伝統があります。オリエンテーションと呼ばれます。どういうことかと言いますと、説教者が東側から語りかけるように礼拝堂の向きを整えるというのです。主の御言葉を東側から聞いていくわけです。それは、朝日が東から差し込んでくるからだと言われます。主イエス・キリストが復活されたのは朝早いときです。ですから、朝日がのぼることと、主の復活の朝、救いのよろこびがもたらされたことを重ねているわけです。

 夜眠るときに、明日朝が来るだろうかと心配なさることは、あまりないのではと思います。しかし、経験している苦難を夜にたとえるなら、この苦難の夜に朝が来るだろうかと悩まれたことはあるのではないでしょうか。しかし、ヨハネが伝えたことは、夜が明けて朝日を浴びるように、神様が嘆きの夜に喜びの朝をもたらしてくださるというのです。私どもがつくり出せない光を、神様が将来からもたらして、慰め、力づけてくださるのです。


 ヨハネ黙示録21章3~4節を与えられていますが、まさに私どものところにさし込む朝の光のように、神の祝福の御言葉を伝えています。

「その時、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。」とありますが、これは、神様のおられる玉座から神の声、神の言葉を聞いて、ヨハネが伝えたということです。私どもにとって朝日に照らされる気持ちよさは、説明の必要がないものがあるでしょう。そのように、説明の必要のないような言葉がここに、記されています。


「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」


 「神の幕屋」は神を礼拝するところ、神に出会うところです。それがある場所、ではなくて人と共に神様が住んでくださるというのです。むしろ、神様のおられる天に人が住むことをゆるされたということでしょう。この箇所は、葬儀の際に、火葬を前にして祈る時に朗読する神の言葉でもあります。神のもとへと愛する者を送る時の、約束の言葉として信じて読みます。神様のもとでは、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と信じて祈るのです。


 この朝は、召天者記念礼拝として礼拝を献げています。キリスト教会が信じてきたことは、礼拝を献げる時に、天が開いて私どもの祈りが主なる神に届くということです。神のもとに召された先達たち、愛する者たちともつながって礼拝を献げていると信じることができるのです。

 この時、召天者が「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」喜びに生かされていることを信じて、改めて神にゆだねていきたいと願います。そればからか、天の神のもとから届く御言葉は「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」と私どもを励ますのです。暗い夜が明けて、朝の光が射し込みます。主なる神は夜を朝に変えて、夜明けを与えてくださる、救いの神です。悲しみや嘆きや労苦がある中にも、それが喜びに変えられる時があるという、神の慰めの祝福が、私どものところにも、将来からさし込んでいるのです。

 東から、日が昇るのを見る機会があるでしょうか。日の出ではなくても、朝日を見るときに、私どもに先立って、主なる神が、私どもに近づいてくださることを思い起こしましょう。主なる神こそが、私どもに将来をもたらしてくださることを信じて、これからも神の恵みに照らされて生きていきたいと祈り願います。 



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