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shirasagichurch

2022年11月27日(日)

【待降節第1主日】

 

礼拝説教「喜びたたえる」 

 願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書1:39-56


<讃美歌>

(21)24,4,127,175,65-1,27


 今日から、待降節(アドベント)に入ります。アドベントは到来という意味がありますが、主イエス・キリストが私どものひとりとなってお生まれくださった降誕という到来を祝うために備えるときです。アドベントクランツに火がひとつ灯りましたが、4週にわたってアドベントの礼拝を献げて、クリスマス礼拝に備えます。しかし、私どもよりもはるかに長い期間、主の降誕に備えた人たちがいます。とくに、今日の箇所に記されているマリアです。


 マリアは、その親類のエリサベトを急いで訪ねています。「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」(39-40)

 マリアがなぜ急いだのか、その理由は、はっきりとは書かれていません。しかし、「そのころ」とあるのは、マリアが救い主の母となることを、天使から聞いた「そのころ」です。「お言葉どおり、この身に成りますように。」(1:38)と告白したマリアですが、自分一人では受けとめきれなかったのでしょう。とにかく話しを聞いてほしいと、親類のエリサベトを訪ねたとのではないか。

 マリアの訪問を受けたエリサベトは、「聖霊に満たされて」(41)、主にある喜びを言いあらわしました。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」(45)エリサベトは、マリアが救い主の母となることを自分のことのように共に喜んだのです。

 マリアは確かに、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」のです。「お言葉どおり、この身に成りますように。」(38)と告白することができました。しかし何の不安も恐れもなかった訳ではないでしょう。

 マリアはエリサベトに会って話を聞いてほしかっただけではなくて、いっしょに祈ってほしかったはずです。エリサベトとザカリア夫婦に祈ってほしかったのではと思います。祭司であるザカリアは直接この箇所に出て来ませんが、おそらく三人で主を礼拝し、祈ったはずです。食卓での会話の中で、マリアの話を聞いて、エリサベトとザカリアは心から主の導きを信じて、共に受けとめていったはずです。

 エリサベトは、年老いてから、神の導きによって新しい命を宿して半年が経っていました。(1:36)やがて洗礼者ヨハネの母となった人です。そのエリサベトに会って、励ましを受けて共に祈ったはずです。私どもも、共に祈って生きていく幸いをいただいています。共に祈りつつ生きていく、神の家族として歩んでいるのです。

礼拝を献げるときに、自分のことだけを考えている方は少ないでしょう。それぞれの家族のことや教会の仲間のことを考えて、祈る心でいる方もあるでしょう。しかし、互いのことを心に留めながら、やはり礼拝は、ひとりひとりが神様の前に出るときでもあります。まず、自分が神様へと向き直って、主なる神の御心へと近づこうとする、変わろうとする私どもを主は助けてくださるのです。マリアも、そのような主の導きをエリサベトやザカリア夫婦と共に経験していったのではないかと思います。

 

 エリサベトとマリアは、親類だと聖書は語ります。(1:36)

 エリサベトは祭司ザカリアと夫婦だったのですから、マリアも、祭司の家庭に生まれたかもしれない。祭司が礼拝をつかさどるつとめに生きていたのですから、マリアはそれを間近で見て、礼拝の恵みを知っていたと思われるのです。

 マリアとエリサベトは共に集い、主の御前に、礼拝を献げて過ごしているのです。

 マリアは、主の御前で、心からの賛美を献げました。

「わたしの魂は主をあがめ、

 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

 身分の低い、主のはしためにも

   目を留めてくださったからです。

 今から後、いつの世の人も

   わたしを幸いな者と言うでしょう」(47-48)


「わたしの魂は主をあがめ、

 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と始まるこの歌は、実はマリアが独自に歌ったのではないと言われます。

 旧約聖書にある詩編がもとになっていると言われるのです。たとえば、詩編34編3節には「わたしの魂は主を賛美する。」とあります。長く歌い継がれた賛美とそこにある救い主への待望が成就するように、マリアによるたたえの歌となったのです。その意味では、マリアが祭司の家庭の出身であったとするなら、祭司が神に賛美を献げるときに用いる詩編をよく知っていたのです。

 

 「魂」という言葉も、旧約聖書の意味合いをマリアは知っていたはずです。旧約聖書で「魂」は、通常、ネフェシュという言を用います。「ネフェシュ」は「のど(咽)」という意味があります。

 人は、咽のように、渇きをおぼえる存在です。しかしその渇きを、主なる神が潤してくださるので、人は生きることができるのです。聖書は、人の存在を、神との関係でとらえているのです。


 マリアは主をたたえます。

「わたしの魂は主をあがめ、

 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(47)

 「わたしの魂」に重ねて「わたしの霊」とありますが、「わたしの魂」と同じ意味合いだと考えられます。

 マリアもまた、その渇きを主に満たしていただいたのです。

 渇きが癒されたのは、救い主の母となることによってでしょうか。

 マリアの告白には、救い主の母となるただひとりに選ばれたことへの、自分を誇るような思いが全くないのです。

 マリアは、自分のような者が神に顧みられたことに喜びを見いだして、満たされているのです。「身分の低い、主のはしためにも 目を留めてくださったからです。」(48)

 「身分の低い」を、ルターは「無に等しい」と訳しました。

 「主のはしため」も「主の取るに足らない僕(しもべ)」と訳したい。

 「無に等しい、主の取るに足らない僕(しもべ)」とは、私どものことでもあります。ですから、「今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」という告白も、マリアだけの告白ではないのです。

 主に顧みていただいた私どももまた、「幸いな者」として、ごいっしょに礼拝で、主をたたえて生きるのです。


 クリスマスが近づくと、クリスマスに洗礼をお受けになった方は、思い起こされることがあるのではないでしょうか。多くの方が、その準備の段階で、自分のような者が受けていいのだろうか、と言われます。しかしそのような自分を主がすべて赦してお救いくださることへの感謝な思いが与えられていくのです。そしてその感謝な思いは、年を重ねて大きくなっていくのではないでしょうか。まさにマリアと共に「幸いな者」として主をたたえつつ、私どもは生きていくのです。

 主なる神が、私どもひとりひとりに、その御心を向けてくださることの「幸い」を感謝して、主なる神をごいっしょに喜びたたえていきましょう。

このアドベントのとき、そしてクリスマスにおいて、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と主を喜びたたえていきましょう。



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