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2022年11月20日(日)収穫感謝日・謝恩日

更新日:2022年11月26日

【降誕前第5主日】


礼拝説教「心を注ぎ出す」 


 願念 望 牧師


<聖書>


ルカによる福音書4:31-37


<讃美歌>


(21)24,9,156,531,65-1,27


 秋から冬へと季節が変わっています。日が沈むと寒さを感じます。一日の内で、夜が明ける前、闇が深まり最も気温が下がります。正確には、夜が明けてほんのしばらくはまだ気温が下がっているようです。夜明け前の暗きときに例えるように、物事に夜明け、解決がもたらされる直前が、もっとも苦しく、辛抱を必要とすることがあるのではないでしょうか。

 あるいは、春が来た、という表現で、夜明けがもたらされるような喜びのときを言い表すことがあります。


 主イエスはガリラヤで福音を宣べ伝えられました。その御言葉によって、ガリラヤという地に春をもたらされたのです。

「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」(4:31-32)

 主イエスの御言葉に権威と力がありました。それは、人々が主イエスの御言葉に動かされていったということです。


 聖書の最初に記されている、天地創造を思い起こします。

「初めに神は天地を創造された。・・・

 神は言われた。『光あれ』こうして光があった。」(創世記1:1、3)

 主の御言葉が、権威と力に満ちている明らかな姿が、すでに天地創造の初めからありました。どういうことでしょうか。

 「神は言われた。『光あれ』こうして光があった。」神様が「光あれ」と言われた御言葉の通りに、光があったのです。それは、御言葉の通りに、そこに神の出来事が起こったということです。旧約聖書で言葉と訳される、ダーバール(ヘブライ語)は、行為とか出来事という意味もあります。まさに、神の御言葉は、神の出来事でもあるのです。そのことは、主イエスがガリラヤで働かれたときに起こりました。


 主イエスがガリラヤの会堂で「黙れ。この人から出て行け」(35)と言われると、その御言葉の通りになりました。悪霊に取り憑かれた人から、悪霊が「何の傷も負わせずに出て行った」(35)のです。

 主イエスの権威と力に満ちた御言葉は、天地創造の時の主の御言葉と同じであります。主イエスは私どものひとりとなってくださいましたが、天地創造の初めからおられた主なる神でもあるのです。

 悪霊を追い出してもらった人にとっては、まさに春がもたらされました。春という言葉では言い表しきれない喜びを生きるようになったのです。


 先日教会修養会があって、小グループに分かれて聖書の短い箇所を黙想しました。黙想は、自分に与えられた聖書の言葉として思いを巡らせます。その手がかりに、たとえば自分がその場面にいたらどうか、と考えてみます。今日の箇所で、みなさんがその場所にいたらどう思うかということです。

 たとえばこんな質問が浮かぶかもしれません。主イエスを「神の聖者だ」ということ自体は間違っていないのに、どうして主イエスは悪霊に「黙れ。」(35)と言われるのかというものです。実は、聖書のすべてを理解することはできないところがあります。それは、神様のすべてを理解できないように、神様の御言葉である聖書のすべてを知ることはできないからです。

 ただ、ひとつはっきり言うことができるのは、主イエスは悪霊によってご自身が誰であるかが伝ることを望まれなかったのです。主イエスを信じる者たちによって、ご自身が救い主であることを、神の聖者であることを伝えてほしいと願っておられるということです。

 主イエスは弟子たちによって救いが宣べ伝えられることを御心となさいました。キリスト者はみな、キリストの弟子です。主イエスのからだである教会の一部とされた私どもによって、ご自身が救い主であることを伝えようとなさったのです。そのように私どものような者が主を伝えることを、主は喜びとしてくださっています。主イエスをわたしの救い主、主はわたしの救い、と言い表すことは、私どもの喜びであります。


 主をわたしの救いと信じて喜びをいただくことは、旧約聖書の時代から受け継いでいます。

詩編62編を思い起こします。

2-3節、6-7節は、同じような告白が重なっています。「 」

 2節と6節は少し言い換えています。

「神にわたしの救いはある。」(2)

 「神にのみ、わたしは希望をおいている。」(6)


 重ねて告白された信仰の歌から、ほとばしるようにしてさらに8節で、「わたしの救いと栄えとは神にかかっている。」と喜びを言い表しているのです。

8-9節

「わたしの救いと栄えとは神にかかっている。

 力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。

 民よ、どのような時にも神に信頼し、

 御前に心を注ぎ出せ。

 神はわたしたちの避けどころ。」(8-9)


 この告白が、主イエスによって成就したのです。

 主イエスを「わたしたちの避けどころ」と信じて、御前に心を注ぎ出すことができるのです。


 礼拝において罪を告白し、誰にも打ち明けられないような思いも、主に向かって注ぎ出すことができるのです。

 どのようなときであっても、主は「わたしたちの避けどころ」として、

「御前に心を注ぎ出せ」と招いてくださるのです。


 「御前に心を注ぎ出せ」と招いてくださる主イエスの御言葉は、権威と力に満ちています。

 それは、慰めと愛に満ちた権威と力です。

 主イエスの御言葉に導かれて、主の御前に心を注ぎだし、主イエスを私どもの避けどころと信じて生きる、恵みの生涯をごいっしょに歩んでまいりましょう。


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