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2022年11月13日(日)子ども祝福

【降誕前第6主日】

 

礼拝説教「よろこびの知らせ」 

 願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書4:14-30


<讃美歌>

(21)26,6,57,493,65-1,85


 主イエスは、イザヤ書を朗読されました。イザヤ書が預言した言葉が、主イエスご自身によって成就したことを明らかにされます。それは、御自分がイザヤが指し示した救い主(メシア)であるということです。「主がわたしに油を注がれたからである」「この聖書の言葉は・・・実現した」と。

「油を注がれた者」とは、メシア(救い主)ということです。しかし故郷のナザレの会堂にいた人々は、信じることができず、しるしを求めました。そのとき主イエスは、奇跡のようなしるしではなく、御言葉を語りかけられました。

 主イエスが語られたのは、旧約聖書の有名な話です。しるしによってではなく、御言葉を信じた人たちの話です。私どもも同じ恵みの道に生きるためです。


 ひとりはシリア人ナアマンの話です。彼は異教の国の将軍です。彼は、預言者エリシャのことを聞きつけて、重い皮膚病を癒やしてもらおうとやってきました。しかし与えられたのは、使いの者による「ヨルダン川で7度(たび)身を洗いなさい」というエリシャからの伝言だけでした。預言者が直々に来て、癒やしてくれると思っていたナアマンは、怒って帰ろうとします。しかし家来の忠告もあり、信じて身を委ねたのです。使いの者による伝言であっても、主の言葉をエリシャは伝えました。身を委ねたナアマンは、御言葉が実現して癒やされたのです。そればかりかナアマンは信仰を与えられて帰って行くのです。


 もうひとりはシドン地方のサレプタのやもめです。エリヤは、彼女のところへ主によって遣わされます。エリヤは彼女に「水を飲ませてほしい」とお願いして、「いっしょにパンも一切れ用意してほしい」と付け加えたのです。すると彼女は、最後の小麦でパンを焼いて息子と食べたら、もはや死を待つほかはない状況を伝えます。

 そのときエリヤは、その小麦で私のためにまずパンを焼きなさい、それから、あなたと息子のためにパンを焼くようにと語るのです。預言者エリヤのためにまずパンを焼くのは、まず神に献げなさいということでもあります。エリヤは主の御言葉を伝えて約束しました。

「主はこう言われる。・・・『壺の粉は尽きることなく、瓶(かめ)の油はなくならない。』」(列王上17:14)と。彼女はエリヤを通して語られた主の御言葉を信じて従ったのです。そしてその御言葉の通りに、主の恵みを受けたのです。彼女もまた、異国の地にある者でした。

 主イエスは、御言葉を聞いて信じる恵みを語られたのです。しかし、イスラエルの民ではない、異国の民の者たちの信仰でした。ナザレの人々の不信仰が照らし出されたとき、彼らは悔い改めることができず、主イエスを亡き者にしようとしました。

「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」(4:28~29)


 そのとき主イエスは死なれたわけではありません。

 しかしナザレの民と同じ思いがやがて「十字架につけろ」(23:21)と叫ぶ声となっていったのです。「山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」そのときに、主の時はまだ来ていませんでしたが、十字架の死が指し示されているのです。それと共に、罪が照らされたときに、それを素直に受け入れられない人の罪の姿が記されているのです。


 主のもとでは、私どもは霊的には「貧しい人」であり、罪に「捕らわれている人」自分の姿がはっきり「見えない人」(18)のです。その私どもの罪の赦しのために、主は十字架に命を献げられました。崖から突き落とそうとした彼らのためにも、主は父なる神に赦しを願い、代わって審きをその身に受けられたのです。


サレプタのやもめの話には、続きがありました。それはやもめの息子が死んでしまうのです。母もエリヤも嘆き、エリヤは主なる神に訴えるようにして祈り、息子は生き返るのです。そのことは、主イエスの復活を指し示しています。

 「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(30)

人々の真ん中を通り抜けていかれた主の姿は、死に瀕しているところから、それを振り払っていかれた姿です。やがて死からよみがえられた主のお姿が、すでにここにあるのです。


 私どもも、後ろが崖のような、どうしようもないことがあるかもしれません。自らの罪深さ、見えていない愚かさがまねくような事態があるかもしれないのです。しかしそこでこそ主に憐れみを願い、罪の赦しを信じて祈るべきです。主はそこに、赦しの道、復活の道、恵みの道を切り開いてくださるのです。主は、崖から突き落とそうとする者たちの真ん中に、道を造って歩いて行かれました。私どもに厳しい現実が押し迫るようなときにも、主は私どもの手をしっかりと握って連れ出し、そこを通り抜けてくださるのです。

 主の恵みの道が、救い主である主イエスによって、今もなお与えられていることを信じていきましょう。



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