【聖霊降臨節第19主日】
礼拝説教「神と人とに愛される」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 2:39-52
<讃美歌>
(21)26,15,165,531,64,85
礼拝で幼児祝福をすることがあります。礼拝に集った幼児を祝福するのですが、教会の仲間の家庭に生まれた幼子を祝福することもあります。祝福が告げられて、教会の仲間たちでその幼児の成長を祈っていくときでもあります。特別なことのようですが、礼拝ではいつも、最後のところで祝祷をします。祝祷でなされていることは、祝福を告げているのですから、祝福と呼ぶ教会も少なくありません。その意味では、礼拝のたびごとに祝福が告げられて、主の祝福をいただいて帰っていくのです。
今日の箇所に、幼児祝福でよく用いられる聖句があります。
40節「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」
52節「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」
この二つの聖句に囲い込まれるように、今日の箇所があります。詩編に同じような言葉で囲い込む、囲い込み(挟み込み)というものがあります。ルカが詩編の囲い込みを意識していたかはわかりませんが、同じような言葉で挟み込まれています。40節では「神の恵みに包まれていた」52節では「神と人とに愛された」。原語では40節の「恵み」も52節の「愛された」も元々は同じ言葉です。ですから52節を「神と人とに恵まれた。」と言うこともできるのです。
主の恵みに包まれていた主イエスの話が、恵みという言葉で挟み込まれているのは、味わい深いことではないでしょうか。
主の恵みに包まれていた主イエスの話がどういうものだったかというと、マリアとヨセフは、主イエスが少年のころ、エルサレムに礼拝に出かけるのですが、帰り道で主イエスを見失います。一日分ほどの道のりを行った後、一緒に旅をする親類や知人の中にいると思っていたのが、そうではなかったことに気付くのです。三日ほどかけて探しながらエルサレムに戻り、神殿にいるのを見つけることができました。
マリアは心配したことを伝えて、いさめるのですが主イエスはこう言われました。
「どうしてわたしを探したのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」(49)
しかし続く50節にあるように、
「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」のです。
なぜでしょうか。「父の家」とは話の流れからすれば、神殿ということになります。しかし主イエスは、通常マリアとヨセフと共に、ガリラヤのナザレに住んでいました。やがてまたナザレに帰って行ったのです。主イエスが言われた、「わたしが父の家にいるのは当たり前だということ」は、どういうことでしょうか。
実は、「父の家」というのは、意訳です。元々の言葉では、「父のこと」「父のなさること」という意味です。直訳すれば「わたしが父のなさることの中にいるのは当たり前だ」となります。
主イエスは、父なる神との関係の中にいつもおられた。父なる神のなさることの中にいつも生きている、そのことを言われたということです。
ルカは、主イエスの分かりにくい言葉をそのまま伝えているのですが、主イエスが地上におられながら、天の父なる神との関係に常に生きておられたことを記したのです。ルカは、主イエスが神の恵みに包まれ(40)神の愛に生かされておられた(52)ことを伝えました。それは、同じ道に私どもを生かすために主イエスが救い主として生まれ、私どもの一人として成長してくださったからです。
主イエスが神の恵みに包まれて、神と人とに愛されたのは、私どもがそのような神の恵みに囲まれて生きるようになるためです。主イエスは私どもに恵みの道を与えるため、自らその道を開き、私どもがその恵みの道をついていくようにしてくださったのです。主イエスのあとをついていくように招かれています。
さて、「父の家」という訳も、ふさわしい訳です。父のなさることは、まずその父の家でなされるからです。そして、その父の家は、地上では教会であり、教会は礼拝の場であります。
私どもにとって礼拝は、魂が御言葉によって養われるところです。地上において、礼拝を献げながら、天におられる父なる神とつながって祈りを献げ、神の御言葉を共に聞く恵みを与えられているのです。誰にも打ち明けられない思いも礼拝で主の御前に注ぎ、また御言葉によって照らされて罪を告白して、主の赦しを信じる信仰を与えられていくのです。そのようにして、私どもは、魂の休みを礼拝において与えられているのです。
礼拝という魂の休み場は、失われることのない恵みの場です。先週、詩編14編を祈祷会で学びましたが、6節に「主は必ず、避けどころとなってくださる。」とあります。主が私どもの避けどころとなってくださるというのは、心から信頼して主のもとに行き、魂の休みを与えられるということです。
主イエスこそが、私どもの誰にもまさって、礼拝を献げる喜びに生きて行かれました。そのようにして、主イエスが私の後をついてきなさい、と招いてくださっているのです。
主イエスが父の家でなされる礼拝をどれほど慕っておられたか、を思い巡らしますときに、詩編84編を思い起こします。
84編7節「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。」
この言葉を主イエスも学ばれ、心に刻まれたはずです。主イエスにとって「嘆きの谷」は、この地上で暮らされること自体がそうであったかもしれません。そして、嘆きの谷の極みは十字架の受難であります。しかし、そこを泉となさったのです。
主イエス・キリストはまさに、「いつも父のなさることの中におられた」のです。私どもに代わって、父のなさること、罪の裁きをその身に受けられました。しかしそれによって、私どもの裁きが過ぎ越し、赦しの道、救いの恵みの道が備えられたのです。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とされた主イエスが、死からよみがえられて、私どもの救い主として共におられるのです。
今日は、創立76周年記念の礼拝でもあります。私どもは共に礼拝を献げながら主の恵みによってここまで来ることができました。その恵みは変わることがないのです。主イエスは、私どもが礼拝の恵みに生きるように支えてくださっています。主イエスによる恵みの場は、失われることがないのです。主イエスは、私どもの誰よりも「嘆きの谷」(詩84:7)を通られ、十字架に命を献げてくださいました。しかし「そこを泉と」なさって、私どもに救いを分け与えて、魂の休むところを備えてくださったのです。主イエスはいつも恵みの礼拝に私どもを招いてくださっていることを信じていきましょう。主イエスの恵みに生きることが、神と人とに愛される道でもあるのです。そして、主イエスがそうなさったように、神と人とを愛していく道でもあるのです。
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