【降誕前第8主日】
礼拝説教「神を試してはならない」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 4:1-13
<讃美歌>
(21)26,12,56,454,64,85
こうして献げています礼拝を、日本語で礼拝と言ってきました。あるとき、ドイツ語で礼拝のことを、ゴッデスディーンストと言うと教えてもらいました。直訳すると、神の奉仕となります。礼拝は私どもが献げるものであると思い込んでいましたが、神様がそこで働かれることがまず第1にあってこそ、成り立っていることを思わされました。主なる神が、礼拝において私どもに仕えて奉仕してくださるように、準備して招いていくださるのです。恵みの御言葉を与えようと用意してくださっています。
ですから、礼拝の中心は、主イエス・キリストの御言葉です。さらには、見える御言葉、食する御言葉とも言うべき、聖餐が礼拝の中心です。福音の御言葉が正しく語られ、ふさわしく聖餐が祝われるところに、まことの教会が形成されるのです。
今日の箇所で主イエスは、私どもが主の御言葉によって生きるということを、はっきりと語ってくださいました。どのような場面でかと言いますと、それは誘惑を悪魔から受けられたときです。
悪魔は、告発者、中傷する者という意味があります。悪魔は主イエスが40日間断食され空腹を覚えられたとき、
「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3)と言ったのです。石をパンに変える力を持っておられることを悪魔も認めていたのかもしれません。主イエスはその力をご自分のために使われませんでした。奇跡を起こして人々を驚かせ、救い主であることを示そうとはなさらなかったのです。
主イエスは私どもの一人となって誘惑を受けられ、その戦いに勝利されました。御言葉によって誘惑に勝利する道を示されたのです。主イエスは言われました。
「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある。」(4)と。
どこに書いてあるのか。それは申命記8章3節です。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる・・・」
思い出すことがありますが、私事ですが、大学生のとき、初めての海外経験はタイでした。カセサート大学で、東アジアのキリスト者学生が集まって大会が開催されました。真夏に300名ぐらいだったと思いますが、聖書のメッセージを聞いたときです。講師が、こんな意味のことを言われました。暑い夏でコカコーラが美味しいですね。しかし、コカコーラ以上に御言葉を求めているでしょうか。御言葉に渇いているでしょうか。
主の祈りで、「日曜の糧を今日も与えたまえ」と祈ります。私どもは、日ごとの食べる糧だけでなく、魂の糧である御言葉にどれほど飢え渇いているでしょうか。御言葉への空腹を覚えているかを考えさせられます。礼拝は、御言葉への空腹に気づかされるとき、そして、満たされるときであります。
悪魔の二つ目の誘惑は、権力と繁栄の誘惑です。
悪魔は「国々の一切の権力と繁栄」が自分に「任されていて、これと思う人々に与えることができる」と言っていますが、ほんとうのことなのだろうかと疑問になります。悪しきことに源を持った権力と繁栄であるとすれば、それは主なる神から出たものではないのです。いつまでも続かないのです。
このとき主イエス・キリストは、ただ御言葉を語られました。主がすべてを治めておられることを示されました。
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」(8)(申命記6:13)
主イエスは社会を変える運動を直接なさらなかった。しかし礼拝の恵みに生きる人々、救いに生きる人々を生み出し、教会を導いていかれたのです。地の塩、世の光として教会を用いて、世を動かしていかれたのです。
私どもは、礼拝共同体として生きています。私どもが礼拝共同体として生きることは、礼拝で主イエス・キリストの御言葉に養われ、主の和解の福音に導かれて自らも和解の使者となっていくことです。それは、礼拝の喜びを生きていくこと、そのようにして主なる神からの喜びを持ち運んでいくことであるのです。礼拝には、この世を照らす光、地の塩として生きる恵みが備えられているのです。
主イエスが受けられた三つ目の試練、誘惑は、悪魔が聖書の御言葉を用いたものです。御言葉にこう書いてあるからそうしたらどうだ、と誘ったのです。
「神はあなたのために天使たちに命じてあなたをしっかり守らせる。」
「あなたの足が石に打ち当たることのないように天使たちは手であなたを支える。」と書いてあるから、神殿の屋根から飛びおりたらどうだ、と誘惑しました。それらは、詩編91編11節12節を切り取ったものです。
主イエスは、奇跡を起こして人々に救い主であることを示すことを拒否されました。それと共に、御言葉を間違って身勝手に用いてはならないことを示されたのです。
「あなたの神である主を試してはならない」と。これは、申命記6章16節にあります。私どもも、主を試してはならないのです。「神はあなたのために天使たちに命じてあなたをしっかり守らせる。」とあるからといって、身勝手に思い切った行動に出て、神様が守ってくださるかどうか、試すようなことをしてはならないのです。神様がいるなら応えてくださるはずだと、神様を試すようなことをしてはならないということです。むしろ、ひたすらに主を信じて仕えて生きるのです。
主イエス・キリストは、ひたすらに父なる神に仕えていかれました。十字架の死に至るまでです。この箇所は十字架への道がはっきりと示されています。
「時が来るまでイエスを離れた。」とありますが、その「時」は十字架の時です。
神の子なら十字架から降りてきたらどうだ、との罵声をお受けになったのです。しかし主イエスは、十字架のお苦しみを振り払うことなく、命を献げられました。私どもに代わって神の審きを身に受けられたのです。私どもが救いに生きるためです。
主イエスの救いによって、私どもは神の口から出る御言葉に生きるのです。主の救いによって、私どもは神である主を拝み、ただ主に仕える者とされます。主はその恵みの中で、私どもをしっかりと守らせ、その御手で支えてくださるのです。礼拝共同体としての私どもの教会の恵みをさらに知ることができるようにと祈り願います。
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