【降誕前第9主日】
礼拝説教「わたしの愛する子」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 3:15-38
<讃美歌>
(21)26,10,140,294,64,85
洗礼者ヨハネが預言者として主イエスのことを伝えたときに、このように語りました。
「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」(16)
履物のひもを解くのは、当時、奴隷の中でも身分の低い者がしていたことです。ヨハネは、主イエスの前にひざまずく資格もないと言いたかったのでしょう。
よく考えてみると、私どもは元々、神の御前にひざまずいて祈る資格を持ち合わせているでしょうか。ないとすれば、主なる神が憐れみを持って招いてくださるので、その恵みのゆえに、ひざまずいて祈り、礼拝を献げることができるのです。
ヨハネは、洗礼についてこのように語りました。それは主イエスを指し示した言葉です。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、・・・
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(16)
「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」このヨハネの言葉は、どのように実現したのでしょうか。
キリスト教会は、教会の誕生日とされるペンテコステの日、聖霊降臨日に起こったことが、聖霊と火で主イエスが洗礼をお授けになったことと信じています。
「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ」(使徒言行録2:3)たことが、聖霊と火による洗礼であって、そこからキリスト教会の歩みがはじまったと言えるのです。
そして、キリスト教会に、洗礼を授けていく恵みの使命が与えられているのです。そして、洗礼と共に、聖霊を受けることが約束されているのです。ペトロが聖霊降臨日の説教で語りました。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録2:38)
ですから、水で教会が授ける洗礼と、聖霊による洗礼を区別していないのです。聖書に約束されているように、主イエスを救い主と信じて主の御名によって洗礼を受けるその時に、聖霊を受けているのです。そのことは決して感覚的なものではなくて、信仰によって受け取っていくものです。
洗礼を授けられて、その時に聖霊を恵みの賜物として受けるのです。そのことを私どもに先立って最初に経験なさったのは、主イエスです。「イエスもまた洗礼を受けておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。」(22)
これはそこにいた民衆にも見えたことなのだろうか。おそらくは主イエスにしか見ることがゆるされない神の聖なる霊であったのではないか。
父なる神と、独り子である主イエスのみが聖霊と共に生きることにふさわしいはずです。しかし主は、その聖なる霊を私どもにも分け与えることを、喜びとしてくださったのです。
主イエスの洗礼の時に、天からの語りかけがありました。
「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者』という声が天から聞こえた」のです。
この語りかけは、実に深い意味を持っており、旧約聖書の二つの箇所が背景にあると言われます。一つは詩編2編7節の「お前はわたしの子」という主の語りかけです。
詩篇2編はその当時、王が立てられるときに朗読された詩編と言われます。
やがて詩編の言葉が、主イエスによって成就したのです。その意味では、主イエス・キリストは、私どもがお仕えすべき、まことの王であるということです。
もう一つは、イザヤ書42章1節です。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。」とくに、「喜び迎える者を」という言葉は、「わたしの心に適う者」という御言葉と響き合っています。実は、「わたしの心に適う者」というルカによる福音書の言葉は、直訳すると「わたしはあなたを喜ぶ」となりますから、よりイザヤ書の言葉と重なってきます。
もう少しお話ししますと、イザヤ書の42章はイザヤ書の「しもべの歌」と言われる区分にあります。ですから、主イエスを父なる神様が喜んでおられるのは、しもべとしてのイエス様です。すぐにおわかりになる方もあるかもしれませんが、しもべとしてのイエス様が、十字架の道を歩まれて、私どもの罪の赦しのために自ら神の審きを身に受けられて仕えてくださいました。それは、まことのしもべの姿でもあるのです。
詩篇2編の王の歌、イザヤ書42章のしもべの歌、その二つがひとつとなって天から語りかけられました。主イエス・キリストは、まことの王にして、まことのしもべであるのです。普通には考えられないことですが、主イエスは仕えることによって恵みを与えて私どもを導き支配なさってくださる、王なる救い主であるのです。
改めて「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」という天からの語りかけを思い巡らしますと、主イエスのみが受けるにふさわしい御言葉です。
しかしその天からの語りかけを、私どもも主イエスと共に受けるように主イエスは救いの道を開いてくださったのです。
主イエスが洗礼を受けになった時に、「天が開け」たとあるように、主イエスは天を開いてくださったのです。今日から、教会の暦では主の降誕を祝うことに備えていく、降誕前(こうたんぜん)の主日が始まります。主イエスが、私どもの救い主となってお生まれくださり、しもべなる王として導いてくださることを信じて、主の降誕の祝いに聖日ごとに備えていきましょう。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」まことのしもべとなってくださった主イエスは、十字架の死により、誰も切り開くことができなかった死を切り開いて復活され、救いの道を与えてくださいました。主イエスは天を開いて、神の聖霊を与える洗礼の恵みを与えてくださっているのです。
聖霊は、目に見えないお方で、主イエス・キリストご自身とまったくひとつです。聖霊として、主イエスは、どのような時も、私どもの歩みの傍らにいてくださると捉えることができます。
主イエスが洗礼をお受けになったヨルダン川のことをお話ししますと、海抜マイナス300メートルあまりにある死海に注ぐ、地球で最も低いところを流れる川です。ご存知の方もあると思いますが、高い山に登るほど、酸素が薄くなるのです。逆に、海抜マイナス300メートルというような低い所になるほど、酸素が濃くなります。
考えてみれば、低い所にくだることにたとえられるような、厳しい苦難のただ中に、主イエスが共にいて支えてくださることは、神の恵みをより一層経験することになるのではないでしょうか。逆に順調な歩み中で、高ぶらないように注意する必要があるのです。
主イエスはどこまでも私どものところまで来て共に生き、私どもが主イエスと共に天からの語りかけを聞く者としてくださるのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者。」もったいない御言葉ですが、主の恵みに共に応えて生きていきたいと願います。
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