【聖霊降臨節第20主日】
礼拝説教「救いを仰ぎ見る」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 3:1-14
<讃美歌>
(21)26,7,432,441,64,85
洗礼者ヨハネのことが記されていますが、救い主の道を備えていくのが、ヨハネの使命でありました。
ルカは、イザヤ書40章3-5節を引用しながら、救い主のために道を整えていく者が現れるという預言は、洗礼者ヨハネによって成就したと語りかけたのです。かつての預言者イザヤが預言したときに、すべてを見通していたわけではないはずです。おぼろげに見ていたところもあったでしょう。しかし、はっきりと見据えていたのは、主の救いが成就するということです。「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」(6)のです。
私どもは、すべてを知りたいと思うことがあるかもしれません。しかし、私どもに必要なことは、主は必ず救いの計画を成し遂げてくださるという信頼です。預言者がそうであったように、また福音書を書き記したルカもそうであったように、主にどこまでも信頼する思いが、上より、主なる神から与えられるのです。聖書の御言葉と共に主なる神が働いてくださっているのです。
洗礼者ヨハネは救い主を指し示しました。そのときに、厳しい言葉で悔い改めを語ったのです。
「悔い改め」とは神へと向き直ることであり、もっと積極的に言うなら神のもとへと帰ることです。それは、神のもとへと帰って、その主の足下にひざまずいて祈ることです。
ヨハネにとって、神のもとに帰って祈ることと、その行いが改まることは一つのことでした。ですから「悔い改めにふさわしい実を結べ」と語ったのです。
群衆が「ではわたしたちはどうすればよいのですか。」と問うたときに、ヨハネは具体的に語りました。
下着を2枚持っている者は、持っていない者と分け合うようにと言ったのです。これは、分かち合うことを語っているのですが、罪の本質が自己中心であるところに関わっているのです。
罪という言葉の聖書での元々の意味合いは、神様とズレていることです。神様とつながらずに生きていくときに、そこにさまざまな罪を犯していくことになるというのです。そして、人が罪を犯していくその根本には、自らのことを第1に考えていく自己中心があります。ある牧師が、罪を英語で言うと「SIN」ですが、「I」が中心にあるように、「I(わたし)」が中心にくる、自己中心が罪の本質です、と説明されました。
徴税人には、その職を辞めるようにとは言わなかったのです。規定以上に取り立てることをやめるようにと命じました。主が憐れみをもって、世を滅ぼすのではなく、何とか御心に近づけようとなさっていることに仕えることを説いたのです。
兵士にも、ゆすり取ったり、だまし取ったりせず、与えられているもので満足するようにと語りかけました。
よく考えると、「与えられているもので満足する」ことは、私どもにも当てはまることではないでしょうか。
私どもは果たして、与えられているもので満足しているでしょうか。今手にしているものは、主なる神から与えられているものであることを忘れていることはないでしょうか。与えられているものを感謝することは、主の働きのもとでなされます。生きているようで生かされていることを感謝していくことにも、主の恵みの働きがあってこそ、それができるのです。
ともすれば私どもは、人と比べて自分に足らないことを嘆くことがあるかもしれません。しかし、与えられているものを感謝して生きることができるなら、それは幸いなことです。足らない部分を考えていくと、どこまでいっても満足できないことに陥ることがあるのです。感謝できることは、いつでもできるようでありながら、神様の助けを必要としているのです。あるいは私どもは、かつての自分と比べて嘆くことがあるかもしれません。主の恵みによって、今与えられているものを心から感謝していく幸いを生きていきましょう。
主の恵みの働きによってこそ、今こんなに与えられているということを悟り感謝していくことができるのです。
教会に与えられているものを感謝する必要があります。教会に与えられている尊い賜物は、主イエス・キリストの福音宣教です。私どもは、礼拝をはじまりとする福音宣教をもって地域に仕えています。世に仕える教会というのは、主の福音を地域に伝えていくことです。キリスト教会にしかできないことは、主イエス・キリストの救いを宣べ伝えていくことです。そして、礼拝から救いの恵みが広がっていくのです。たとえ小さな群れであっても、真実に主の救いを感謝して礼拝することは、とこしえに確かな主とつながっている恵みを生きているのです。その恵みの確かさは、いかなるものによっても奪われることはないのです。
私どもは礼拝で神様から来る喜びを与えられ、その喜びを自らに宿して生きていきます。そして、それぞれが生きていく中で、職場や学校で、家庭や地域で、祈りの心をもって神と人とに仕えていくのです。
先ほど、洗礼者ヨハネは救い主を指し示した、と言いました。
ヨハネの語った厳しい言葉も、主イエスのことを指し示しているのです。
「斧は既に木の根元に置かれている。
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(19)
この言葉を、ルカはヨハネが語った福音の言葉と信じて記しました。
それは、ルカによる福音書が語りかけていることは、切り倒されたのは、私どもではなく、主イエスご自身だからです。
「差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。」(7)
とヨハネは語りかけました。この言葉は、心に引っかかる言葉です。この言葉だけを切り離して、救いのない裁きの言葉として用いることをしてはならないのです。「差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。」当時のユダヤ人たちは、自分たちは選ばれた者であって、神の怒りを受けるのはユダヤ人ではない異邦の者たちと考えていたようです。しかし、神の御前には、すべての者が救いを必要としているのです。ユダヤ人もまた、主に立ち帰って救いを受ける必要がある、そのことをヨハネは心を込めて伝えました。そしてルカは、免れない神の怒りを主イエスがすべてその身に受けてくださったことを福音書に記したのです。
「斧は既に木の根元に置かれている。
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
ヨハネが告げた厳しい言葉を心にとめましょう。主イエスが私どもの一人となって十字架に命を献げて、私どもに代わって父なる神に審かれ、切り倒されたことを信じていきましょう。
厳しい御言葉をもって神様が裁かれるのは救いがあるからです。救いを与えようとして、招きつつ御言葉によって厳しく照らしてくださるのです。
ルカは、いかなる者も、主の救いに招かれていることをはっきりと伝えました。福音の言葉です。
「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(6)
私どもも、救い主がおられることを告げ知らせていきましょう。主を告げ知らせるには、まことに弱く、自分にはできるだろうかと思うことがあるかもしれません。しかし、自分ですべてをするというのではなく、むしろ主が働いて私どもを用いてくださることを信じていきましょう。
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