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shirasagichurch

2021年9月5日(日)聖日礼拝(zoom)

【聖霊降臨節第16主日】


礼拝説教「ただ信じなさい」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 5:21-43


<讃美歌>

(21)26,13,141,463,65-1,27


 与えられています箇所は、死という問題について、あるいは、人の死を含めた苦難ということについて、とても大切な光を与えている箇所です。その光が主イエスからもたらされています。主イエスが御言葉によって、私どもの生きること、また死を迎えることについて希望の光を投じておられます。ごいっしょに耳を傾けてまいりましょう。

 ここには、二つの話が折り重なるように記されています。

 ヤイロという人の幼い娘が死にそうになって、父であるヤイロが必死に主イエスに助けを求めに来るのです。必死な求めに応えて、主イエスは父ヤイロと一緒に出かけて行かれます。考えてみれば、主イエスは、何をなさっておられたのでしょうか。

 主イエスは、再び湖の向こう岸へと渡られるのですが、その時に、おびただしい群衆が近づいてきます。主イエスは、彼らに御言葉を語りかけ、教えようとされていたのではないか。そこに突然、死にそうな娘を助けてほしいという、ヤイロの叫びが聞こえてくるのです。しかし、私どもには主の働きを中断させているように思えても、主イエスは彼の叫びに応えて、出かけて行かれるのです。

 ヘンリー・ナウエンという有名な教師、神学者は、このように述べました。「私は仕事がいつも妨げられると言って、全生涯不平を言い続けてきました。そして、ようやくわかったのです。私が妨げられるということは私の仕事であることを。」

 私どもがそのことを理解して受けとめていることは、とても大切な、教会の豊かさに関わる問題です。


 主イエスは、マルコによる福音書において繰り返し妨げられておられます。しかしそれでもなお、御自身をあらわして働いておられるのです。

 この箇所でも、ヤイロの娘のところへと向かう途中、実に12年間も病を患っていた女性をいやされ、足を止めておられます。彼女は、その病気のために「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(26)というのです。この女性の苦しみの深さを思います。 

 当時、病気は罪のためであると思い込まれていました。病の苦しみと罪のためであるという二重の苦しみを担わされていたのです。しかも、この女性の出血が止まらない病気は、汚れたものとされていたので、治さないことには、胸をはって生きていくことができなかった。何とかして治そうとした。そのためには、いくらかかってもいいと考えたでしょう。しかし、悲しいことに、彼女のもとに残ったのは、病気とさらなる苦しみだけでありました。

 そのような女性が、意を決して、主イエスに近づいたのです。衣のすそにでも触れればいやしてもらえるのではと思ったからです。おびただしい群衆が主イエスの後に従っていたのですが、この女性だけは、全く違う近づき方をした。主イエスは気がつき、足を止められたのです。

 主イエスは、ひとりの女性が名乗り出るよう促されて、彼女と出会われることを求められました。ただいやされたことに終わらないで、人格的に出会い、御言葉を与えようとしておられるのです。彼女は震えながら進み出て、すべてをありのままに話します。(33)

 主イエスは、彼女に愛をもって語りかけられます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して生きなさい。」(34)

 カルヴァンという宗教改革者は、この箇所に関する説教の中で、この女性の信仰について説いています。主イエスが「あなたの信仰」と呼んでおられるものについて、カルヴァンは、彼女の信仰には、誤りがある、という意味のことを言っています。聖なる人の衣の一部分にさわることによって、いやしてもらおうとするのは、不十分なものであるというのです。

 彼女がもし、いやされただけで、主イエスと本当の意味で出会うことなく、この場から立ち去っていたら、それは、病気のいやしだけに終わって、彼女の救いとはならなかった。主イエスが与えた「安心して生きなさい」という御言葉のもとに、神の平安を生きることはなかったということです。

 主イエスは、憐れみをもって、彼女の不十分な、つたない思いを、信仰として神の恵みに引きずり込んでくださったのであります。主は私どもの、つなない不十分な思いをも、信仰として神の恵みに導いてくださるのです。

 主イエスは、憐れみ深い神の言葉を語りかけてくださいます。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して生きなさい。」

主イエスは私どもにも、語りかけてくださるのです。子よ、あなたの思いを私は知っている。あなたを私の恵みに招き入れて救い、生かす。私が与える信仰のもとに安心して生きなさい。神の平安を歩みなさい。

 

 ひとりの女性が、思いがけず自分の外から与えられた喜びに包まれて、涙しているであろうその時に、実に対照的な事が起こります。ヤイロの家から、人々が来て、彼の娘は亡くなった、というのです。もう先生を煩わすには及ばない、というのです。

 その時、主イエスは、父ヤイロにみ声をかけられます。

 「恐れることはない。ただ信じなさい。」(36)


 マルコによる福音書には、たびたび主イエスの歩みを妨げる人々の姿が記されています。この箇所もそうです。誰もが主イエスの歩みは、そこで止まるはずだ、ヤイロの娘の死でその歩みは終わったと思った。しかしマルコが伝えていますことは、それでもなお、主イエスはその歩みを進められるということです。

 ヤイロの娘の死でさえも、主イエスの歩みを終わらせることにはならない。死でさえも、主イエス御自身の道を妨げることはできないということです。

 ヤイロの家へと行かれた主イエスは、さらに語られます。

 「子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」(39)

 「死んだのではない。眠っているのだ」というのは、仮死状態という意味ではありません。全く死んでいるにもかかわらず、主イエスは眠っていると言われる。どういうことでしょうか。

 確かに主イエスが、死んでいた少女を生き返らせる神のわざを為されたのは、特別なことと言えるでしょう。しかし、だからといって、死んでいたこの娘が蘇生して生き返った、そのことだけに終わらせてはならないのです。やがてこの少女も、自らの人生を終えて、死を迎えるときは来たのです。

 主イエスが、「タリタ、クム」「少女よ、起きなさい」と言われた、この主イエスを信じるということは、いつでも蘇生して生き返らせてもらえるということでないのです。むしろ、この奇跡物語のカギは、主イエスが、「子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」と言われるところにあります。

 主イエスにあっては、死でさえも、眠りにも等しい、というのです。マルコによる福音書は、死に勝利されて、よみがえられた主イエスを伝えています。このヤイロの娘の物語を通して、神は死にも勝利されたのだという信仰が生まれること、それこそが、この物語が意図する本当の奇跡であります。


 主イエスが死に勝利された、という信仰、それは、希望と言い換えることができます。その希望、神が死にも勝利されたという希望は、私どもには生み出せない、与えられなければもてないものです。    

コロサイ書の御言葉を思い起こします。そこに、主イエスを信じる信仰、また信仰に生きるときに抱く愛は、天に蓄えらている希望に基づくものだとあるのです。

 「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と・・・抱いている愛・・・  それは、あなたがたのために天に蓄(たくわ)えられている希望に基づくものであり、  あなたがたはすでにこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。」

                            (コロサイ1:4-5)

 私どもがささげる礼拝は、「天に蓄(たくわ)えられている希望」に連なるときであります。私どもの能力にのみ頼んでいくことや主イエスの福音に基づかない希望は、やがて色あせていく。朽ちる種から生み出たものです。希望は神から来るのです。希望は、朽ちない種である主イエスの御言葉によって与えられるのです。


 マルコが告げているように、神が死に勝利された希望があるのです。死は私どもにとって、どうしようもないことの最たるものです。しかし私どもがどうしようもないと思うその時に、主イエスに希望をおいて、祈る道が備えられているのです。

 ヤイロという名前がマルコ福音書に記されているのは、おそらくヤイロが後にキリスト者として、主イエスの福音を伝えていったからだと言われます。主イエスを信じる希望を伝えたということです。

 私どもには、いつかこの身も魂も全く死ぬ時がおとずれます。しかし、それでもなお、私どもの死は、神の深い恵み、救いの中に受けとめられるのです。死からよみがえられた主イエスの命の中に、自らをゆだねていくことができるということです。復活の希望が与えられているということです。主なる神による希望のもとに安心して生きて、主イエスを信じる希望を伝えていきましょう。



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