【聖霊降臨節第19主日】
礼拝説教「悲しみが喜びに」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 6:14-29
<讃美歌>
(21)26,7,194,479,65-1,27
聖書を読んでいきますと、心に引っかかる箇所があります。ざらつくような手触りを感じることがあるのです。今日の箇所もそうです。しかし、かえって心に引っかかるところに、とても大切な神様の語りかけが込められているのです。すぐにはついて行けない、神様の深く広い、愛の心が語りかけられていることがあるのです。聖書には、神の言葉を語るように命じられた預言者が登場しますが、預言者自身が神様についていけない思いを抱いていることがあります。
そのことでは、旧約聖書のヨナ書を思い起こします。ヨナは預言者として大切な使命を与えられるのですが、まさか、自分たちを攻め滅ぼすかもしれない敵の大国アッシリアの首都、ニネベの町に行きなさいと神様から命じられます。しかも、町の人々に向かって、このままでは神の審きがあって町が滅んでしまうから、悪から離れ悔い改めるように語りなさいというのです。ヨナは預言者であるのに、神様の命令に従えませんでした。ニネベに向かって陸路を行くべきなのに、反対方向行きの船に乗ったのです。やがてヨナの進路をさえぎるように船は嵐に遭い、自分のせいだと悟ったヨナは船員たちに話します。預言者であるのに神様に逆らってこの船に乗っていること、自分の手足を捕らえて海にほうり込めば嵐は静まると。船員たちは何とか船をコントロールしようとしますが、最後には神様に叫ぶように祈りながら、ヨナを荒れた海に投げ出し、嵐は静まります。しかしヨナは、神様が用意した大きな魚にのみこまれ、お腹の中で守られて三日目に吐き出され、奇跡的に助け出されていくのです。ヨナは思いを改めて、ニネベという大きな町に行って悪から離れるように、主なる神に向き直るように語りかけました。おそらくヨナは想像しなかったでしょうが、自分が語った言葉によってニネベの町の人々が悔い改めていくのを目の当たりにします。そして、その町が神の審きから逃れて、滅びてしまうのをまぬかれたのです。しかしそこで、ヨナは神様の愛の御心に、ついていくことができずに怒りました。すねてしまったというべきです。敵が滅びてほしいと思っていたのでしょうか。
かつて東ドイツの教会では、冷戦時代に、よくヨナ書が読まれていたそうです。ヨナ書は、何とか悔い改めるように惜しむ神が記されています。そこにある希望は、やがては、間違っている者たちを神が滅ぼしてくださる希望ではないのです。敵が審かれ滅びることとは全く違ったかたちで、神が平和をもたらしてくださる希望です。ヨナは憐れみ深い神の思いを教えられていくのです。私どもも、聖書の御言葉を通して、たえず憐れみ深い神の思いを教えられていくのです。
さて今日の箇所でヨハネは、ヘロデに捕らえられても、神の言葉を伝えたのですが、ヘロデは、ヨハネの語る悔い改めに、心悩ませながらも、なお喜んで耳を傾けていたというのです。洗礼者ヨハネが、神の預言者であることを認めていたのでしょう。
しかし、残念なことに、ヘロデは、ニネベの町の人々のようにはいかなかった。彼は、自分を捕らえているものが何であるかを明らかにすることになります。自らを捕らえている、ヘロデ自身よりもはるかに強い罪の力を明らかにすることになるのです。
ヘロデは、自分の誕生日の宴席を催します。そこに、高官や将校、有力者達を招きました。その祝いの席で、娘が踊りを踊った。その娘の名は、聖書には記されていませんが、古来、サロメと呼ばれていきました。それは、古代の歴史家である、ヨセフォスの文書にその名が記されているからです。
サロメの踊りは、ヘロデや客人を大いに喜ばせました。ヘロデは、勢いづいてしまう。娘への褒美に、望むならこの国の半分でもやろう、と言ったのです。
学者達が口をそろえて言いますのは、この時のヘロデには、実際そのような権限はない、ということです。それは、マルコは、ヘロデを王と記していますが、当時、この国すべてを支配していたのはローマ皇帝です。ヘロデはその一部の領土を任されていた、いわば領主に過ぎないのです。
ヘロデにとって、全く予期しない申し出がありました。それは、「洗礼者ヨハネの首を」(24)という願いです。ヨハネは預言者として、ヘロデに、その時の妻であるヘロディアとの結婚を神の教えに反する、間違っていると語っていた。確かに、ヘロデは自分の兄弟の妻ヘロディアを奪い取るようにして結婚した。前々から、ヨハネを亡き者にしたいと考えていたヘロディアが、「洗礼者ヨハネの首を」と娘に言わせた。ヘロデは、ヘロディアの考えだということはわかったでしょう。わかったけれども、ヨハネを殺したくはなかった。ヘロデは、「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護」(20)していたのです。「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた。」なぜでしょうか。ある神学者は、ヨハネがヘロデに愛をもって語っていたからだというのです。ヘロデのことを愛して、語っていたから伝わっていた。ある意味で、本当にヘロデのことを思っていたのは、牢にいたヨハネだけだったとも言えます。
残念なことに、ヘロデは、申し出に従って、ヨハネを殺すことをやめられなかった。26節に「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また、客の手前、少女の願いを退けたくなかった」とあります。一度誓ったことを取り下げられない、ガリラヤの領主としてのメンツがあったと思います。あるいは、妻ヘロディアの心が自分から離れることを恐れたのかもしれません。ヘロデは、自分よりももっと強い力に支配されていたということです。実に惨めな姿であります。神の恵みに支配されていたのではなく、罪に捕らわれ、悪しき力に支配されていた。しかし、私どもには、ヘロデを愚か者として裁くことはできないのではないでしょうか。ほんとうに裁くことができるのは、主なる神のみであります。
洗礼者ヨハネの死は、何を伝えようとしているのでしょうか。
口を封じる、という言い方があります。ヨハネを殺すことで、ヨハネの口を封じようとしたのです。しかし、ヨハネの命は奪えたかもしれないが、預言者であるヨハネが伝えていた、神の言葉を殺すことはできなかった。そのことは、聞き漏らしてはならない神の語りかけであります。神の言葉は生きるのです。
ヨハネの死は、たまたま殺されてしまった、不遇の死のように思えるかもしれませんが、決してそうではないのです。ヨハネの殉教の死は、避けられなかった。ヨハネの死は、単なる不遇な死ではなくて、ここで明らかに、主イエスの十字架の死を指し示しているのです。どういうことでしょうか。
どうしても心に引っかかることですが、私どもは、ヨハネが死ぬべき理由をどこにも見いだせないのです。しかしそこでこそ、ヨハネが指し示していることがあるのです。それは、ヨハネの死以上に、主イエスが、十字架の刑罰を受けて死ぬべき理由はどこにもないということです。
26節で、ヘロデが「非常に心を痛めた」とありますが、この表現は、マルコ福音書で、もう一カ所だけ記されている言葉です。
それは、ゲツセマネの主イエスの言葉の中にあります。十字架を目前に控えて、主イエスは、弟子達を伴い、ゲツセマネというところで祈られました。その時、弟子達に言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。」(14:34)
この主イエスの「死ぬばかりに悲しい」という言葉と、ヘロデの「非常に心を痛めた」と訳されている言葉が、聖書の原語では全く同じ言葉です。
主イエスは、「死ぬばかりに悲しい」そのうめきの中で、祈られました。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14:36)
「死ぬばかりに悲しい」そのうめきの中で、すなわち主イエス以外には誰も悲しみ抜くことができない痛みの中で、主イエスはすべてを父なる神にゆだねられました。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
私どもを捕らえて離さないものから解き放つために、すなわち罪の縄目から解放するために、主イエスは苦しまれました。その苦しみの中、「御心に適うことが行われますように」と、私どもを解き放って神のものとするために、主イエスは祈ってくださったのです。
一つの聖句を思い起こします。
「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10)
「神の御心に適った悲しみ」というのは、神の御言葉に照らされて与えられる悲しみです。礼拝において与えられる、罪を悲しむ悲しみです。その悲しみは、ただ悲しみで終わることはない。何の良いものも生み出さない、死をもたらすものではないということです。命あるものを生み出さない、死をもたらす悲しみではないということです。
「死をもたらす悲しみ」というのは、神様との関係が途絶えてしまうという意味での「死」をもたらすということでもあります。しかし、たとえ、そこから何の良いものも生み出さない悲しみにおいても、死からよみがえられた主イエスがおられるのです。悲しみを喜びへと変えてくださる。主イエスは今もなお、「御心に適うことが行われますように」と祈ってくださっているのです。主は御言葉によって私どもを照らして、罪の悲しみを、罪の赦しという喜び、救いの喜びに変えてくださるのです。
礼拝はそのような、主が悲しみを喜びに変えてくださる、恵みの時であります。主がだれよりも私どものすべてを知っておられ、喜びに生かしてくださることを信じていきましょう。
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