【聖霊降臨節第18主日】
礼拝説教「弱さを誇る」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 6:6b-13
<讃美歌>
(21)26,226,58,458,65-1,27
ヤコブという、旧約聖書で有名な信仰者のことを知っておられるでしょうか。
礼拝では、マルコによる福音書を少しずつ学んでいますが、旧約聖書の物語を思い起こしながら読むことができます。旧約聖書の信仰の物語を学ぶことは、とらえきれない昔から、主なる神が導いてくださっている、その信仰の歴史に、私どもも連なっていることを教えられます。主なる神が、ヤコブというひとりの信仰者に働きかけてくださったことに思いを深めていきましょう。ヤコブは、ある意味で欠け多き人でありましたが、そのヤコブを導いてくださった主は、私どもをも愛をもって導いてくださるのです。
ヤコブというのは、旧約聖書の中で、神様のことを、「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と呼ぶほどに、信仰者の祖先として覚えられてきた人です。
そのヤコブが、あることが原因で、初めてふるさとを離れなければならないことになったのです。あることというのは、ヤコブの双子の兄、エサウが受けるべき父イサクからの祝福をこっそり横取りしようとしたことにあるのです。祝福という中に、兄の相続財産も含まれていました。
憤慨した兄のエサウは、何とかして、弟のヤコブを殺したいと考えた。それを知った母親のリベカが、知恵を働かせて、ヤコブを逃がすわけです。どういう風にしてかと言いますと、リベカは夫のイサクに進言して、ヤコブの妻を自分の実家の親戚から迎えるために、ヤコブを送り出すようにさせたということです。
表向きは、パートナー探しの旅ですが、ヤコブが知っている、本当の旅の意味は、兄エサウの殺意を逃れる旅です。しかも、ヤコブにとっては、自分が受け継ぐことになっている祝福の地を離れる、初めての旅であります。もう戻っては来られないかもしない故郷を後にする旅であるのです。
ヤコブは、故郷を離れる旅の途中、ある場所で、野宿をします。その時、石を枕にして眠るのです。硬い石を枕にするヤコブは、祝福の地を去るのですから、自分は、神の祝福の外にいると思っています。あるいは、そこにはもはや、主なる神は、共におられないと思い込んでいる。当然な思いかもしれません。ヤコブは、ふるさとを離れたとき、彼は、自ら希望の外にいるのです。
そのような、ひとり寂しく、闇の中に、石を枕に眠るヤコブの姿は、見るに忍びないものがあります。ヤコブは、ある意味で、自分の蒔いたものを刈り取っているのです。しかしそこで、主なる神はヤコブに、神へと向き直る悔い改めの時を与えられたのです。
ヤコブは、不思議な夢を見ます。
「一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た」(口語、創世記28:12)のです。ヤコブのはしご、と呼ばれる出来事です。ヤコブは、そこで神の語りかけを聞くのです。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。」(28:15)
「わたしはあなたと共にいる」というのは、わたしはあなたと共にいて、決してあなたを見捨てない、ということです。
それは、ヤコブにとっては、思いがけない神の語りかけでした。自分の外から与えられた、まさに神の言葉でした。礼拝は、主なる神に出会うときです。そして主から御言葉をご一緒にいただくのです。主の御言葉は、私どもの思いや経験の外から与えられるものです。自分のような者は、神様の救いを受けるにふさわしくないと思う、その私どもに主は愛をもって働きかけてくださるのです。
ヤコブは希望と信仰を抱いて神に近づいていたわけではなかった。そんなヤコブにも主は近づき、御言葉を与えていかれたのです。そうであるなら、信仰を抱いて近づく者にはなおさら、主は御言葉を語りかけてくださる。礼拝において、ヤコブに与えられた神の言葉を共に聞くことができるのです。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。」
ヤコブは、眠りから覚めて、神に告白します。眠りから覚めて、というのは、まるで、不信仰の眠りから覚めたというべきものです。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」(28:16)
先ほど申しましたように、ヤコブにとっては、故郷を離れる旅は自分が蒔いたものを刈り取る旅、それは決して、神が共におられる旅とは思えなかった。それは当然だと思います。しかし、ヤコブの心よりも、主なる神の心は、はるかに広く、憐れみ深いものであったということです。神へと向き直る悔い改めを神様の方から与えられたのです。そのような神の限りなく広い愛の御心は、私どもにも向けられている。私どもの周りにいる方々にも向けられているのです。ですから先に信仰を与えられた者たちは、自分たちだけではなく、ひとりまたひとりと主なる神と出会う方が与えられるよう、尊く光栄な使命をいただいているのです。
今日与えられています箇所で、主イエスは、主を信じる仲間が加えられるように、12人の弟子たちを遣わしておられます。
先ほどヤコブの物語に触れましたが、ヤコブは、自分のような者を神様が心に留めてくださっているとは到底思えなかったのです。しかし神様の思いは自分の思いをはるかに超えていたのです。
このことはとても大切なことでありまして、私どもが自覚する自分自身は、神様が受けとめておられる私ども自身とは、ずれていることがあるのです。主はヤコブ同様に、私どもを受け入れて、その弱さや欠けを補うように働きかけ、用いようとなさっておられるのです。
マルコによる福音書では、12人の弟子は、何も欠けなく遣わされているのではないのです。彼らは、12節にありますように「出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」のです。確かに、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」(13)とありますように、成果と呼べるものはあったようです。
しかし、マルコによる福音書は、この時遣わされた12人をはじめとする、主イエスの弟子達は、主イエスのことがまだ十分にわかっていなかったことを伝えています。
マルコ福音書を読み進みますと、8章では、主イエスが、御自身の歩もうとされる道をはっきりお示しになります。主イエスが、私どもが神に赦されて生きることができるように、自ら、私どもに代わってさばきを受け十字架におかかりになることを伝えられる。そして、3日の後に死からよみがえられることをも教えられるのです。その時、12人の代表とも言えるペトロは、主イエスにそんなことがあってはなりませんと、いさめはじめます。ペトロに対して主イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と厳しく語られるのです。
やがては、「サタン、引き下がれ。」とまで言われなければならない欠けと弱さを持っている、罪深い者たちが、主イエスから遣わされている。
ここで、主イエスが12人を遣わす思いと、先ほどのヤコブが故郷を離れる時にも、「わたしはあなたと共にいる」と言われる、主なる神の思いとが、つながるのであります。
弟子たちを遣わされる主イエスには、悔い改めを与え、罪を赦し、弱さのうちに働く神の姿があるのです。
ペトロたちによって初代教会が歩み始めた頃、パウロという信仰者が生み出されました。キリスト者を迫害していたパウロが、復活された主イエスに出会い、まさに大転換と言うべき悔い改めを与えられ、生涯をささげ尽くして主イエス・キリストを宣べ伝えるようになりました。パウロは自らの罪を赦してくださり、弱さの内に働かれる主を経験していきました。パウロは与えられた主の御言葉を独り占めすることなく、教会に与えられた恵みの御言葉でもあると信じて記しています。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」神の言葉に応答して、キリストの教会に与えられている告白が続きます。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリントⅡ12章9節)
今日は、敬老祝福式があります。80歳以上の方々を主の御言葉により祝福します。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」との御言葉は、年を重ねた方々と共にいただくことができる祝福の御言葉です。年を重ねた方々の輝きは、主に祈る姿にあると思います。主なる神によって生きていることの信頼が増している、それは「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」との感謝の告白を教会に響かせているのです。
私事ですが、若い頃、自分のような者が牧師であっていいのだろうかと思うことがよくありました。しかしあるときから、自分のような者でも牧師に用いてくださる教会はすばらしいところですよ、とお話しするようになりました。
求道者の方と入門の学びをしていく中でも、私のような者でも救いを受けて主は用いてくださっていますから、あなたも安心して、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けませんか、とお話しするようにしています。
主イエスは、いつも教会を世に遣わされます。ひとりひとりを送り出して共に生きてくださるのです。主はすべてをご存じです。どうかすべてをご存じである主が共にいて私どもに働きかけてくださる、主の恵みを感謝して生きていきましょう。
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