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shirasagichurch

2021年9月12日(日)聖日礼拝(zoom)

【聖霊降臨節第17主日】


礼拝説教「不信仰から信仰へ」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 6:1-6a


<讃美歌>

(21)26,4,214,346,65-1,27


 与えられています今日の箇所は、「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子達も従った。」(1)とはじまっています。ここで言われている主イエスの故郷は、ナザレという町です。そこでお育ちになった。そのナザレという町にお帰りになった、ということです。しかし、人々は、イエスをただ自分たちの知ってる大工のイエスとして迎えようとするのです。決して、救い主である主イエスとして迎えることができない。自分たちの経験や考えの中にイエスを引き込もうとするのですが、それはうまくいかない。そこに信仰が生まれない。結果として、この箇所は、主イエスが「人々の不信仰に驚かれた。」(6)と記されているのです。私どもも、自分の経験や持っている考えの中だけで主イエスをとらえようとしているとしたら、思いを改める必要があるのです。

 礼拝では、マルコによる福音書を少しずつ学んでいますが、主イエスはここで、ある意味、自らがお育ちになった故郷を失っておられます。大工イエスとしてとどまり続けたなら、そこは居心地のいいふるさとであったでしょうが、ここで救い主として歩み始めておられる主イエスには、ナザレという町は、とどまり続けることができない町となったのです。

 主イエスは救い主として、私どもに地上のふるさとではなく、天にあるふるさとを指し示しておられる。その主イエスは、自ら救い主として歩まれることによって、お育ちになった故郷を失う痛みをその身に負われたのです。

 

 私事ですが、私の生まれ育った故郷、ふるさとは、姫路です。

 瀬戸内海に面した姫路で生まれ育った私には、川は、北から南に向かって流れるもの、高い山は北にあるものという、小さい頃から自然にすり込まれた感覚に気づいたことがあります。かつて青森松原教会に赴任して、八甲田山を眺めたときのことです。実際には青森市内から南に見えるのですが、感覚では北に見上げているように感じてしまうのです。青森市内を流れる堤川は、市内の北にある青森湾に注いでいるのですが、南に流れているように思えて仕方がなかったのを思い出します。

 今お話ししたのは、知らずに自然にすり込まれた方向感覚というものですが、知らずにすり込まれているのは、それだけではないように思います。

 私どもの心の中には、知らずにすり込まれた、これが本当だと思う感覚、価値観があるのではないでしょうか。自分ではそれが当たり前だと思っている。そして、自分の考えをいつの間にか絶対視して、神様も同じように考えておられると思い込んでしまっていることがある。考えみればとても恐いことです。主イエスが「人々の不信仰に驚かれた」のも、そのような、自らの考えや経験の外に出ないところにあるのではないでしょうか。

 しかし主なる神は、私どもよりもはるかに心の広いお方です。自然に狭くなる思いの中で行き詰まっていく私どもを憐れんで、語りかけてくださる。神様は、聖書によって、正しく塩味をつけ直してくださる。あるいは、御言葉によって光を与えてくださるのです。

 神様は、正しく塩味をつけ直してくださる、あるいは、光を与えてくださると言いましたが、「地の塩、世の光」という言葉を思い起こしています。主イエスがお語りになった、有名な山上の説教に記されている言葉です。主イエスは、御自身の周りに集まってきた弟子達と群衆に語られた。「あなたがたは、地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」(マタイ5:13、14)

 弟子達だけでない、周りには群衆もいたのです。ですから、「あなたがたは、地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」という神の言葉は、すべての人に向けて、私どもにも語りかけられているのです。当時の人たちは、塩とか光と聞くと、生活にどうしても身近なものだったので、すぐに何が言われているか、理解できたかもしれない。しかし、私どもは、塩と光がないと生きてはいけないという切実さを、わかっているでしょうか。

 あらためて、塩や光はどういうものでしょうか。塩は、自分ではなくて、他のものに味を付けます。自らは、溶けてしまって、他のものに味付けするのです。あるいは、漬け物に塩が欠かせないように、ものが腐るのを防いでいる。塩があることによって周りが保たれているのです。塩が献身という言葉の代名詞のように使われるのが納得できるのではないでしょうか。

 光はというと、光は自分を照らすために存在しているのではない。他者を照らすためです。闇が光で照らされるとき、その光は感謝されるかもしれませんが、ひとたび光となると、もはや意識されないのが光ではないでしょうか。光もまた、献身の代名詞です。

 ここまで来ますと、皆さんの中には、私同様、「あなたがたは、地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」という主イエスの語りかけを、重たく感じる方がいるのではないかと思います。

 「あなたがたは、地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」という主イエスの語りかけに対して、私はそれほどの者ではありません。あるいは、そこまでにはなれない、なりたくない、そういう正直な思いもあって当然でしょう。しかし、そこでとどまっては、大切な神の語りかけを聞き漏らしてしまうのです。


 有名な植村正久という牧師の説教を思い起こします。植村正久先生は、地の塩、世の光とは何かということについて、それは主イエス・キリストそのものだ、という意味の説教を語っています。確かにそうです。まことに、地の塩、世の光と呼ぶにふさわしいのは、私どもではなくて、主イエス・キリストです。主イエスとつながっていることで、私どももまた、地の塩、世の光として、主イエスと共に生きるのです。

 

 さて、牧師や宣教師のことを献身者と呼ぶことがありますが、すべてのキリスト者は、主なる神にすべてをゆだねて生きる献身者であります。しかしそこには、どうしても押さえておくべきことがあります。それは、献身は、私どもからはじまるのではない。献身は、私どもではなくて、まず主イエスが私どものためにしてくださったと、聖書は伝えているのです。そのことは心に刻んでいくべきことです。まことの献身者である主イエスにつながって、キリスト者は生きるのですから、すべてのキリスト者は献身者となっていくのです。

 私は、主イエスが、まことに、地の塩であり、世の光であることを思いめぐらす中で、今日の箇所に記されている主イエスのお姿と、つながってくる思いがしました。

 主イエスは、自分を照らすためではなくて、人々を照らすために生きてくださった。そして、私どもをも照らしてくださるのであります。

 主イエスは、自らを溶かすようにして、すべてを献げて生きてくださった。それは、救い主としての十字架への道です。私どもの不信仰のただ中に飛び込んできてくださった。今もなお、主イエスは、私どもの不信仰に驚かれつつも、その歩みをやめられることはない。憐れんでくださるのであります。不信仰から信仰へと導いてくださるのです。


 以前にもお話ししたことですが、青森にいた頃、松丘聖生会という、ハンセン病療養所の中にあるキリスト教会で、月に2度、礼拝を共にしていました。その経験のなかで、しだいに私は、ふるさと、とか故郷という言葉を聞くと、複雑な思いがして痛みを感じるようになったのです。

 ハンセン病療養所にいる人たちは、故郷を奪われた人たちです。ハンセン病というのは、らい病と呼ばれていた時期が長いのですが、あまりにも偏見が染みついた言葉なので、今では、病原菌を発見したハンセン氏の名前を取って、ハンセン病と呼ぶことが多いのです。

 ハンセン病というのは、実際には風邪よりもはるかに感染力の弱い、全く伝染病とは呼べない病気なのです。しかし、いったんすり込まれた病気への恐れ、偏見は容易には取り去られることなく、何十年もそこに隔離され、閉じこめられた。故郷の家族と縁を切られて、名前を変えたりして、いない人のように扱われた。そのことは、忘れてはならない悲劇です。

 今は、ハンセン病予防法が廃止されて、法律の上では、自由に故郷に帰れるはずなのですが、ごくわずかな人を除いて、園内でこの地上での生涯を終えられます。しかし、その松丘聖生会のキリスト者は、実に、ふるさとの希望にあふれておられる。それは、天にある私どものふるさとです。 


 神に献げる礼拝は、自分がいったい何によって生かされているか明らかにされるときです。私どもは、神の恵み、神の言葉なくして生きることができない。礼拝は、自分という存在のふるさとである神に生かされる時です。すべての人がそこに招かれている。私どもは自分で生きているようであって、生かされている者です。

 主の招きによって、礼拝を中心とする生活は、天にあるふるさとを目指す旅路でもあります。たとえ、地上のふるさとを失うことがあったとしても、私どもには、誰よりも、ふるさとの人々に受け入れられない痛みを経験され、なおも救いを与えるために、自らを十字架へと献げ尽くされた主イエスがおられるのです。

 主イエスは語りかけてくださる。

 あなたの国籍は天にある。

 あなたのふるさとは、救い主である、わたしのもとにある。


 信仰という言葉は、聖書では真実と訳されることがあります。それは神の真実、キリストの真実ということです。私どもの信仰の源は、主イエスにあります。主の真実、確かさに身をゆだねるところに、たえず信仰が与えられ続けるのです。

 不信仰に驚かれた主イエスは愛をもって働いてくださり、キリスト教会を生み出し、教会の礼拝の恵みによって、ご自身の確かさ、主の真実に招き入れてくださっているのです。

主はいつも、ご自身の真実、確かさによって、私どもを信仰へと導いてくださるのです。





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