【聖霊降臨節第12主日】
礼拝説教「聞く耳をもつ」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 4:21-25
<讃美歌>
(21)26,3,209,342,65-1,27
マルコによる福音書を少しずつ学んでおりますが、与えられています箇所には、主イエスのたとえが記されています。主イエスは語られます。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」(21)主イエスは、大切なことを語るためのたとえとして、「ともし火」の扱い方について話されていますが、それは誰もが知っていることをたとえてお話しになったのです。
主イエスのもとに集まっていた人々は、たとえを聞きながらいろいろと思いを巡らせました。私どもも、主イエスの御言葉、たとえでお話になったことに思いを巡らせて、主の御言葉を聞き取っていきたい。心の糧、魂の糧をいただきましょう。
主は「ともし火は、部屋を照らして明るくするために持って来るのだから、ともし火を置く台である燭台の上に置くものだ。」「升(ます)の下や寝台の下に置いて明かりを消すためではない。」と当然のことを言われます。ここで言われている「升(ます)」というのは、私が調べた限りでは、素材は違いますが、一升(しょう)枡(ます)に形がよく似ています。一升(しょう)枡(ます)というのは、ほとんど見なくなりましたが、四角い箱の中に、お米を入れて量をはかっていたものです。
升でふたをするように、ともし火の上にかぶせてしまいますと、すなわち、ともし火を升の下に置きますと、火は消えてしまいます。当然のことです。当時、ともし火と言われていますものは、ろうそくのようなものではありません。小さなお皿のようなものに油を入れて燃やしたのです。油がこぼれないようにふたで覆われていたようですが、燃やすために細い灯心を入れて火をつけたのです。そのともし火を消すときは、吹いて消したのではなくて、何かでふたをして消しました。煙が部屋にたちこめなくてすむからだそうです。
主イエスは、たとえをもって問いかけられています。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。」升の下に置けばともし火は消えます。実際に、量るための升で消していたわけではないでしょう。いつも使っている火を消すためのふたがないからといって、たまたまそこにあった升で消せば、それは本来あり得ない用い方になります。なおさら、わざわざ持ってきたともし火を消してしまうのは愚かなことです。寝台の下に置くのも同じことです。ベッドの下にともし火を置けば、その火は隠れて、役に立ちません。主イエスは何を語っておられるのでしょうか。あるいは、聞いている者たちにたとえを話されながら、何を問いかけておられるのでしょうか。
主イエスが問いかけられているのは、「ともし火」としてたとえられているものが、わざわざその「ともし火」を隠して消してしまうような、愚かな扱いを受けているということです。
では「ともし火」としてたとえられているのは何でしょうか。このたとえが記されていますマルコによる福音書4章には、いくつかのたとえが語られています。「ともし火」のたとえの前には、先週学びました、「種を蒔く人」のたとえが記されています。
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(14)とありますように、神の言葉、主イエスの言葉が種として蒔かれる。しかし、たとえで言われているのは、実を結ぶのは、良い地に蒔かれた種だけであります。ほかの種は無駄になってしまったのでしょうか。蒔かれたこと自体、無意味だったのでしょうか。そのことは、「ともし火」のたとえで言うなら、周りを明るくして灯すべき「ともし火」を、わざわざふたをして消してしまったり、隠してしまったりすることです。その「ともし火」も消し去られて、無に帰してしまったのでしょうか。
主イエスは、語られます。22節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」この主イエスの言葉に、初代教会のキリスト者たちは、幾たびも励まされて生きたと思います。どういうことでしょうか。
自分たちは、主イエスの御言葉、主の福音を十分に輝かせているとは思えない。自分たちの弱さゆえに、消してしまっているのではないか。主イエスの光を、いや主イエスという光を隠してしまっているのではないか。そのような弱さに打ちひしがれるときに、主イエスの言葉は、生きた励ましとして与えられたのです。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」この御言葉は、主イエスの御言葉に対する信頼を生み出すものです。
マルコは、決してこの福音書を、主イエスのともし火を十分に輝かせている自らとして記してはいないのです。私どももそうではないか。至らなさ、弱さ、まさに罪深さゆえに、せっかくの主イエスの福音を十分に輝かせていないのではないかと思ってしまいます。しかし、そこで終わってはならないのです。
私どもは、主イエスの御言葉への信頼をもって聞きたい。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(22)
「ともし火を持って来る」という言葉は、元々、「ともし火が来る」という言葉です。「ともし火が来る」、まさに、ともし火そのものである主イエスが来られたのに、人々はその火を升の下や寝台の下に置いた。それは、ある神学者が指摘していますように、十字架に主イエスがおかかりになったということです。その意味では、主イエスはすでに、このたとえで自らの十字架を預言しておられる。重い言葉を語っておられるのです。
人々は、主イエスという「ともし火」を十字架につけ、蓋をして消し去ったかに思えた。しかし、このマルコ福音書が告白していますように、主イエスは、消えない「ともし火」でした。誰も消し去ることができないのです。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」(23)と言われ、主イエスはさらに語られます。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、さらにたくさん与えられる。」(24)
先ほどから、ともし火とは、主イエスのことであり、またその御言葉のことだと申しています。しかし主イエスの御言葉を聞くときに、その人の中に、「秤」すなわち器がなければ聞くことが出来ないというのです。
たとえば学生が、先生の講義がつまらないと言っているからといって、本当に価値のない講義であるとは限らない。むしろ逆で、学生たちが聞く耳を持たないからということはあるのです。
聖書の御言葉を聞いているときも、実に私どもは自然に、聞きたい言葉だけを聞き取っていることがあります。
礼拝において、私どもは主イエスの憐れみを求めて、祈り求めるべきであります。
「どうか私に、あなたの言葉、神の言葉を聞き取る器をお与えください。」
「どうか、狭くなっている私どもの考えを正して、あなたの信仰を授けてください。」
主イエスの憐れみを求めて祈る私どもに、主イエスの言葉を恵みの言葉、祝福として聞くことが出来るよう、すでに備えてくださっているのです。
「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(25)とありますが、これは、裁きの言葉ではない、主イエスの祝福の御言葉です。
私どもは、元々、神の前に持っている人ではない。与えられた人です。キリスト者とは信仰を与えられた人です。罪を赦していただいた人です。そしてキリスト者は生涯を通して悔い改め、罪の赦しをいただきながら感謝をもって生きる人です。
あるいは、キリスト者は、自分が頼みにできると思い込んでいたものを、そのはかなさを知らされて、取り上げられた者であります。「持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」とは、主の恵みの計らいとして聞くことができるのです。ふさわしいものを持つように、あえて取り上げられることもあるということです。ですから、共にひれ伏して、主イエスの祝福の言葉を聞きたいのです。
「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
ふさわしく持つべきは、主のともし火です。心を照らしていただいて、私どもは闇を光に変えていただき、喜びのともし火を主に灯していただくのです。主は消えないともし火として来られました。消えないともし火である主イエスが、私どもを導いてくださることを信じて照らされていきたい。礼拝は、「まことの光」(ヨハネ1:9)として来られた主イエスに照らされる時です。主の御言葉により、心の中に、喜びのともし火を与えられ続けていきましょう。主の教会に灯された喜びのともし火は、どんな時も、だれにも消すことができないのです。
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