【聖霊降臨節第15主日】
礼拝説教「知らせなさい」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 5:1-20
<讃美歌>
(21)26,211,464,493,65-1,27
与えられています箇所は、「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」とはじまっています。「向こう岸」とありますのは、明らかに、湖を渡ってきたということです。湖を渡る途中、嵐に遭って舟は沈みそうになります。主イエスは、あるひとりの人と出会うために、命をかけて渡ってきてくださった。ひとりの人をすこやかに、神への喜びをもって生きることができるように出会ってくださった。主イエスのそのような思い、神の愛が、私どもにも向けられていることを信じて、思いを深めていきましょう。
主イエスのもとには、もっともっと聴きたい、求めている人たちがいたにもかかわらず、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着くために、向かわれました。主イエスは、そこまでしても、会いたい人がいた。お会いになるべき人がいたということです。
向こう岸へと向かう途中、嵐に遭いました。ガリラヤ湖は、周囲を山で囲まれた盆地の底にあるような湖ですので、夕方になると冷えた空気が山から吹き下ろしてきて、湖が荒れたのです。しかし、その日は、弟子達の多くが、ガリラヤ湖の漁師であったにもかかわらず、おぼれて死にそうになった。彼らは、主イエスに助けを求め、嵐を静めていただくのです。主イエスが、お命じになると、その言葉の通りに風も波も静かになりました。小さな私どもの頭では、とらえきれないことが記されています。マルコ福音書は、明らかに、主イエスが人となられた神であって、主イエスの言葉は、神の言葉であることを告げているのです。神がお語りになると、その言葉の通りになるという意味で、神の言葉を告げているのです。
私どもは、実際にその言葉の通りに、風や波が言うことを聞く場面にいたら、信じられるのに、と思うかもしれません。しかし、主イエスに従っていた弟子達は、そのことを目の当たりにしたけれども、すぐには自分達の力で信じることはできなかったのです。それは、神を信じる信仰というのは、私どもの中から生み出されるものではなくて、神様から与えられるものだということです。信仰を与えてください、と祈る必要があります。
マルチン・ルターのある言葉を想い起こします。信仰が私どもの外から与えられる恵みであるということを教えられる言葉です。
「信仰とは、ある人達が信仰だと考えているような、人間的な妄想や夢ではない。そういう人たちは、生活の改善やよい行いが結果せず、しかも信仰について多く聞かれ、語られているのをみると、誤りに陥って、『信仰では十分ではない。正しい、救われた者となるには、行いをしなければならない』という。彼らは福音を聞いても、これに襲いかかって、自分の力で自分のために、心の中で『わたしは信じる』というひとつの思いを作り上げて、これを正しい信仰と考えるようになる。・・・しかし、信仰は私たちのうちにおける神の働きである。・・・」(ルター「ローマ書への序言」)
「信仰は私たちのうちにおける神の働きである。」というルターの言葉は、本当に、信仰が私どもの外から与えられる神の恵みであるということをよく伝えています。マルコによる福音書もそれを伝えているのです。決して、すぐれた弟子達の成功の物語ではない。赤裸々な失敗を伝え、またそれを赦して憐れみ、信仰を与えてくださる神への讃美が記されているのです。
信仰生活、教会生活もまた、私どものうちにおける神の働きであります。牧師として、いろんな思いに触れることがありますが、ある方は、自分は教会で奉仕と呼べる奉仕ができていなくて肩身の狭い思いをして悩むことがあると言われた。また、高齢の方が、自分はもう礼拝に出席するだけになってしまいました、と言われた。しかし、こう申し上げたことがあります。
礼拝というのは、英語でウオーシップサービスと言います。それは、直訳しますと拝む奉仕、となります。神を礼拝する奉仕ということです。礼拝というのは、神を拝むとき、そしてその場に仕えることは、何にも勝って、神が喜ばれる奉仕だということです。
真実に礼拝をささげる、その人の姿を通して、神がおられることが証しされ、集う人を主イエスへと導く伝道がまず礼拝でなされているのです。ですから、しっかりと共に主の御言葉に聴く必要がある。そして、御言葉によって示されて祈りをささげ、主の恵みに応えて心を込めて讃美をささげたい。そのような礼拝の奉仕に私どもはあずかっているのです。ひとりひとりの礼拝の奉仕を何より主なる神が喜んで受け入れてくださるのです。
私どもは、神が喜んで受け入れてくださっているのに、いとも簡単に役に立っていないと判断したり、自分のような者はいてもあまり変わらないと考えたりするとすれば、それは神を悲しませることであります。あるいは、周りの方を、役に立っていないと判断したりすることがもしあるとすれば、主イエスの思いに向き直る必要があります。
主イエスは、人々が見捨ててしまったような人のところへ行かれました。いのちの危険を顧みずに行かれたのです。主イエスが向こう岸へと渡られたとき、出迎えたのは、たったひとりの人でした。しかも、彼は、いかなるものによってもつなぎ止めておくことができないほどであったのです。
墓場をすみかとしていたこの人の姿を、異常な、私どもとは違う人として、まず読むかもしれません。しかし、ある神学者は、この人の姿を自分の姿と重ね合わせて読んでいます。人の罪の姿が、ここに描き出されている。私どもをとらえる罪の醜さ、いかに自分ではどうにも出来ないものであるかということを語っているということです。そこから解き放って救い、神からの信仰の喜びに生かすために主イエスは出向いていかれたのです。
彼がすっかりと癒された時に、町の人々は、主イエスにその地方から出ていってほしいと願います。実に悲しい出来事です。このひとりの人が癒されたことは、全くその町の人々の喜びとはなっていない。多くの豚を失ったことの方が大きかったのでしょうか。彼が、かつて住みかとしていた墓場で、そのままいない人のように世を去ることを願っていたのでしょうか。
主イエスは、ひとりの人を癒して救いに入れられた。解き放っていかれた。それは、本人が言葉で申し出たというよりは、主イエスが、彼の外からなさったことです。まさに、彼の外から信仰を与えていかれた。主イエスは、彼をとらえていた悪霊の言葉には耳を傾けられず、彼をそのままにはなさらなかった。主イエスはこの人の、言葉にならないうめき、魂の叫びに耳を傾け、聞き入れられたのです。
癒されたこの人は、主イエスについていきたいと願います。考えてみれば当然のことですが、主イエスに出ていってほしいと思う人々のところへ帰りたくなかったでしょう。しかし、主イエスは、彼に言われます。19節「自分の家に帰りなさい。そして、身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
彼が自分の家に帰ることに思いを馳せますが、彼がどんなに家族につらい思いをさせたかを考えれば、家族に赦しを請い、受け入れてもらう必要があったでしょう。彼もまた自分を見捨るようにせざるを得なかった家族を赦す思いが与えられなければ、帰ることはできないはずです。彼の家族に和解が必要だったでしょう。その和解を与えて、主イエスは、語られた。「自分の家に帰りなさい。」まさに、語られた神の言葉の通りに、彼を自分の家に帰らせたのです。しかし彼にとって、その後の生涯は、故郷で余生を送るというものではなかった。彼は、主イエスの弟子として、伝道者として生きたのです。自分を喜ばせることや慰めることよりも、主イエスに仕えて生きることを第一としたということです。神様の働き、主のなさることはすごいと思います。
主イエスは、また再び向こう岸へと戻って行かれました。出ていってほしいと願った町の人々のもとを立ち去られたが、人々を見捨てられたのではないのです。主イエスは自分の代わりに、救われた彼を残して行かれました。すこやかにされた彼を、生涯、突き動かしたのは、自分のもとへと渡って来てくれた主イエスに対する感謝の思いであった。私どもも、主イエスへの感謝をもって生涯を生き抜くことがゆるされているのです。
おびただしい豚が犠牲になったことは、町の人たちにとっては大変な損害だったでしょう。しかし、多くの豚たちの犠牲に、はるかにまさる犠牲が、神によって献げられたことを、マルコは告げているのではないでしょうか。それは、主イエスの十字架の犠牲であります。私どもに代わって、神の審きをその身に受けてくださった、尊い愛の犠牲です。
主イエスの尊い愛の犠牲によって、私どもは救われるのです。
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