【聖霊降臨節第14主日】
礼拝説教「信仰が芽生える」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 4:35-41
<讃美歌>
(21)26,2,165,456,65-1,27
主イエスは、弟子達に「向こう岸に渡ろう」と言われて、出発されます。その日、弟子たちは、浴びるように主イエスの御言葉を聞いた。少なくとも耳にしたのです。しかし、「向こう岸に渡ろう」と主イエスがお語りになったとき、神の言葉として聞いたのでしょうか。その日、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(14)と主イエスから語り聴かされながら、神の言葉を聴き取ってはいないのです。神の言葉を浴びるように聴きながら、いざ漕ぎ出すと、相変わらず同じこぎ方をしている。この時彼らは、かつての漁師としての経験で漕いでいるのです。私どもはどうでしょうか。「向こう岸に渡ろう」と言われる主イエスの言葉を、神の言葉として思いを深めていきましょう。
「その日の夕方になって」とありますが、聖書の世界では、夕暮れの日没から日没までが一日です。日没から一日がはじまる。思い出したことがあるのですが、もう20年近く前、大分県の由布院教会にいたころ、説教者としてお招きしたK先生を空港にお迎えにあがったときのことです。途中、霧がすごかったのですが、湯布院に近づくと霧が晴れてきました。やがて盆地にある町を見下ろせる道にさしかかったとき、K先生が「ああ、きれいな夕暮れ。わたしはこの夕暮れ時が大好きなんだ。」とおっしゃった。見ると、雲の切れ目から、夕方の光が、町の中だけに当たっていました。その時、「ユダヤ人のように日没から一日がはじまる感覚」についておたずねしたのです。それは、「安息から一日がはじまる」ということだと言われました。実に福音的な、恵みに生きる感覚だと思いました。山上の説教に、「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)とありますが、「その日」一日を、私どもは、朝からはじまるととらえている。しかし、聖書が教えていることは、まず、安息の時、眠りが与えられて、朝を迎える。眠る前に祈り、主イエスにより罪を赦され、罪の縄目から説かれて眠るのです。それは、体の休み以上に、霊的にその人の存在に休息が与えられる安息の時でもあるのです。「その日」一日を、神が与えてくださる一日として、日々に生きる幸いを生きることができる。信仰生活の喜びは、そこにあります。
日が沈み、通常、安息から一日ははじまるのですが、「その日の夕方」は違っていました。特別な目的を持って、主イエスは弟子達をあえて導かれた。「その日の夕方」主イエスは「『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。」のです。
彼らは、日没後の、薄暗がりの中を出発しました。夜の船路になるのですが、弟子たちの多くは、もと漁師たちだったので、慣れていた。しかし、「向こう岸に渡ろう」と言われる主イエスの言葉を、神の言葉として聞いていたら、漕ぎ方は変わっていたはずです。「向こう岸に渡ろう」と主イエスが語られれば、必ず向こう岸へとたどり着くことができる。まだわからないけれども、向こう岸には神の働きの場が備えられている。そう信頼して漕ぐことができたはずです。
私どもは、神の言葉を聴く備えがあるか、問われています。それは御言葉を聴いたら、変わる用意があるか、問われているということでもあります。
ある説教者が紹介していた、ひとつの詩を思い起こします。その詩は、アントニー・デ・メロというスペインの有名なカトリック教会の司祭が書いた詩です。
「変わろうとするのをやめるとき
そのときは
生きようとするのをやめるとき」
御言葉を聴いて、悔い改め変わることをやめてしまうなら、それは信仰者の命を失うことになるのです。御言葉を聴くことは、主イエスに出会うことですが、それは、私どもの理解を超えた、主イエスに出会うことでもあります。
主イエスは、艫(とも)の方に座っておられましたが、舟が漕ぎ出されて、やがて眠ってしまわれた。艫(とも)の方とは、少し高くなっている舟の後ろの場所で、船頭が座る場所です。眠る主イエスを、弟子たちは見るのですが、その日、語り疲れて主イエスは眠られたと思ったはずです。
確かに、主イエスは疲れて眠られたでしょう。しかし、決してそれだけではこの箇所の眠られる主イエスを理解することはできないのです。疲れて眠っておられるというだけでは捉えることができない主イエスのお姿が記されている。主イエスの眠りに、決して私どもが眠ることができない眠りを見るのです。
主イエスは、ご自身の御言葉に信頼して、必ず向こう岸に渡ることを確信して眠ってしまわれた。その眠りは、実に恐れを抱かせるほど、厳粛な眠りです。すべてを父なる神の御心にゆだねきった眠りなのです。激しい突風により、ともし火も消えて、深い闇の中、主イエスは起き上がられた。そして「『黙れ。静まれ』と言われるた。すると、風はやみ、すっかり凪になったのです。」(39)起きあ上がられる主イエスの姿に、死から復活された主イエスの姿を見る思いがしますが、二つのお姿は、ひとつであります。
嵐を静められた後、主イエスは、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と弟子たちを戒められます。
「いったい、この方はどなたなのだろう。」そう弟子達が言った時、思い起こす聖書の出来事があったのではないか。天地創造の時、「神は『光あれ』と言われるた。すると光があった」(創世記1:3)とあります、創造主である神を思い起こしていたのではないかということです。やがて、主の御言葉の通りに、向こう岸に着くことができた時、朝の光が射し込んでくる力強い情景を思い浮かべます。力強いのは、御言葉から生み出される現実として力強いのです。船が激しい嵐を越えて、主の御言葉により、その激しい現実を乗り越えて目的地に着く姿は、慰めに満ちたものです。
「いったい、この方はどなたなのだろう。」と問うた弟子達は、やがて、主の十字架を目の当たりにするのです。主の十字架に際して、彼らは、思い起こす主の御言葉があったに違いない。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」またしてもそう戒められなければならない、彼らの現実の姿がありました。主イエスを捨てて、離れ去ってしまったからです。しかし弟子達は、神の憐れみにより、復活の主にお出会いする事ができたのです。もはや「いったい、この方はどなたなのだろう。」と問う必要がなくなった。主を確かに知るものとなった。いやそれ以上に、主に知られている恵みの中で、自らを見いだす者とされていったのです。
弟子たちは、復活の主イエスに出会った後、伝道に命をささげて生きることができました。向こう岸である、未知の場所に福音を携えることができた。「向こう岸に渡ろう」と言われる主イエスの言葉を、まさに神の言葉として聴くことができたのです。しかし、なおも、気がつくと、自分たちに信頼していることに気がつく。主イエスがそこにおられないかのごとくに歩んでいる。弟子たちは自らの罪と闘い続けました。そのような彼らを赦してくださる主イエスに、導かれていったのです。主イエスとの出会いを与えられ続けたのであります。それは、起き上がられて御言葉を語られる主イエスです。十字架におかかりになり、よみがえられた主イエスを知り続けたのです。
この箇所を黙想していると、ある聖句とつながる思いがします。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、
言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」
(ペトロの手紙一 1章8節)
この言葉は、ペトロをはじめとする弟子たちの、主のみ前での告白です。自分たちはかつて、主イエスを目の当たりにしながら、見ていないかのごとくに歩んでしまった。しかし、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し」ている。「今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」いる。実際に主に出会った私達と全く同じだ。主をほめたたえずにはおれない。感謝せずにおれない。今あなたがたは、主イエスを愛する歩みの中に生きています。この喜びの語りかけは、私どもにも与えられているのです。
私どもも、主イエスを愛する歩みの中で、起き上がって御言葉を語られる主イエスを知り続けるのです。それは礼拝の恵みに生きることでもあります。礼拝の恵みの中で、共にいましたもう主イエスは、嵐のように私どもを揺さぶるものを静めてくださるのです。「向こう岸に渡ろう」と、主の御言葉が与えられる時、それは私どもの現実となっていくのです。御言葉から生み出される現実です。たとえ嵐の中でも、眠ることができる神の平安を示してくださるのです。
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