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2021年8月15日(日)聖日礼拝(zoom)

更新日:2021年8月15日

【聖霊降臨節第13主日】


礼拝説教「希望のたとえ」

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 4:26-34


<讃美歌>

(21)26,214,54,482,65-1,27


 主イエスが、「たとえで御言葉を語られた」(33)とき、「人々の聞く力に応じて」そうされました。「人々の聞く力に応じて」ということは、誰でも、何かしら、つかみ取って帰ることができるようにしてくださったということです。教会には、いろんな年代の人が集っています。あるいは、年齢ではなくて、教会生活の長さで言うと、長く集っている人も、礼拝に集うようになって間もない方もおられます。でも、主イエスは、誰もが、それぞれの聞く力に応じて命の糧をいただいて、空しく帰ることのないように、たとえを話されたのです。ご一緒に、主の御言葉に耳を傾け、生きる糧をいただきましょう。


 主イエスは、身近なことを題材にして、種の話をされました。当時の人々は、いつも種を蒔いて作物を育てて生活していました。私どもは、日頃から種を蒔くことは少ないかもしれませんが、皆さんの中には子どもの頃、アサガオの種を蒔いて、観察したことのある人もいると思います。アサガオを観察して、どれぐらいツルが伸びたとか、いくつ花が咲いたとか、ノートに記録することはできます。でも、どうしてそのようになるのか書けるでしょうか。教会のぶどうのツルも、暑さの中、どんどん伸びてきます。暑さを喜ぶかのように、気づけばまた大きく伸びています。

 知らないうちに大きくなって成長していくのが、私たちには不思議ですが、神様にとっては少しも不思議ではないと思います。私たちは、種を蒔いたり、苗を植えて、水をやりますが、成長させてくださるのは神様です。

 主イエスは「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(27)と言われました。それは、成長させてくださるのは神様で、その神様にゆだねて生きていくように、たとえで話されているのです。

 皆さんの中に、「夜昼、寝起きしているうちに」と聞いて、あれっと思われた方がいるかもしれません。「夜昼」というのは「昼夜」とか「朝晩」の間違いではないかということです。でも間違いではありません。

 私どもは、一日はどこからはじまると思っているでしょうか。朝起きたときから、その日がはじまると思って過ごしている方がほとんどだと思います。

 でも、主イエスや弟子たちは、違います。いまでもそのようですが、ユダヤの人たちは、一日は、日が沈んだときからはじまると考えて生きていました。私どもは、夜寝て朝起きて、さあ一日がはじまると考えます。

 しかし当時弟子たちは、夕方日が沈むと、さあ新しい日になった、と思いました。みんなで集まって、礼拝をして新しい日を与えてくださった神様に感謝しました。そして食事をしたのです。今のように、テレビもありませんし、電気もないので、夜は小さなともし火、ランプのような小さな光で過ごしましたから、だいたい夜は早く寝ました。

 考えてみてください。新しい日がはじまったら、まず感謝して食事をして、眠るのです。これは、私どもには理解しにくいものがあります。休むことから一日がはじまるのです。そして、朝起きたら、食事と休みを与えてくださった神様に感謝して活動していく。家で仕事をする人もいれば、学校や仕事に出かける人もいます。

 やがて日が沈んだ新しい日の夜、まず休む時に、ただ休むということではないはずです。たとえば、種まきをした日なら、やがての成長を神にゆだねて眠りについていったということです。


 夜昼という習慣からすると、神様はまず私どもに休みを与えてくださるのですが、夜なかなか寝られないこともありますね。それは悩みや心配事があるときがそうです。生きているということは、心配することがいつもあって、いくつになっても心配が絶えないのではないでしょうか。

 神様は、元々私どもを、心配に心配を重ねて生きていくように造られたのではありません。喜んで生きるように、主イエスの御言葉を信じて、神様に信頼して生きるように造ってくださったのです。

 ですから主イエスは、私どもの心配性の病気を癒そうとしておられる。心が心配で支配されていることから癒されて、神様の喜び、希望で心が一杯になるように御言葉を語っておられるのです。主イエスは神の国をたとえておられますが、私どもが心配や悩みがあるなかでも、神様の愛で導かれて、ゆだねて祈るところに、神の国が実現しているのです。


 主イエスは神の国を種にたとえておられます。からし種のたとえを話されました。からし種をごらんになったことがあるでしょうか。それはとても小さな種です。ごま粒、ごまの種よりも、ずいぶん小さな種です。それは、1ミリもありません。

 そんな小さな種なのに、成長すると2~3メートルの高さになる。鳥がその葉の陰(かげ)に巣を作れるほどに大きくなるのです。

 なおさら、主イエスの蒔かれる御言葉の種は、確かに成長して実を結ぶのです。主イエスは、私の言葉に信頼しなさい、と招いておられます。どんなに人々が軽んじても、またあなたの目に小さく見えても、神の言葉に信頼する人は、希望をもって生きることができる、と語りかけておられるのです。主イエスの言葉を信じるということは、それは、救い主である主イエスを信じて生きていくとうことです。神様が不思議に助けて導いてくださることを信じて、自分をゆだねて、心に平安を与えられて生きていくようにということです。

 主イエスは、弟子たちには、種のたとえについて、すべてを説明されました。それは、主イエスご自身が、永遠の種として、十字架におかかりになるということです。十字架におかかりになり、復活された主イエスは、いまも、私どもと共に生きてくださっている。

主イエスという種の実りを与え続けてくださるのです。言い換えるなら、教会生活の中で、共に生きてくださる主イエスが、私どもの心配を希望に変えてくださるのです。

 鳥がその雛を育てる場所は、一番安心な宿り場でしょう。主は、礼拝を中心にした教会生活を神の国の実現として、私どもにとって何よりも安らぐことができる命の宿り場としてくださっているのです。


 

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