【聖霊降臨節第7主日】
礼拝説教「主イエスのお手伝い」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 3:7-12
<讃美歌>
(21)26,127,57,140,65-1,29
マルコ福音書は、主イエスの福音を記しているのですが、過去の物語として記してはいません。そうではなくて、復活された主イエスの物語として記しています。復活された主イエスが、今なお、このように働いてくださるのだと信じて記している。
そのことはまた、主イエスの物語は、主なる神の物語だということです。
私どももまた、マルコと共に、主イエスがどのようにお働きくださるのか、福音書の言葉に心を傾けていきたいと思います。
マルコは、福音書を記しながら、復活された主がこのようにお働きになり、神様はこのようなお方だと記しているのと言いました。私どもも、神様はどのようなお方なのだろうかと、考えることがあるかもしれない。考えること自体はいいのですが、下手をすると、勝手に考えて、自分で宗教を作ることにもなりかねない。そのような危険は牧師が1番気をつけておくべきところです。K先生は、牧師は教祖になり損なうことがあると忠告されました。
わきまえておくべきは、私どもには、主なる神のことはわかりきらないということです。知り得ないのであります。しかしはっきりと心に刻むべきことは、聖書の言葉を通して神を知ることがゆるされていることです。特に、福音書に記されている主イエスの言葉となさったことによって、神とはこのようなお方だと知ることができる。主イエスは、まことの神にして、まことの人となってくださったお方だからです。
また心に刻むべきことは、神の聖霊は必ず聖書の御言葉と一緒に働いて、私どもに主なる神を教え、信仰を与えてくださることです。
この箇所にも、主なる神としての主イエスの姿があるのですが、その姿には、いわゆる神様らしい華々しさがあるわけではない。むしろ、そこには、助けを必要とされる姿があります。特に、9節にあるように、「群衆に押しつぶされないため」「弟子たちに小舟を用意してほしい」と言われる主イエスの姿がそうです。しかし、そのような弟子たちに助けを求め、人々の願いに押しつぶされそうになりながら歩んでおられる主イエスの姿は、私どもにとって慰めです。恵み深い主なる神の姿であります。
主は完全無欠に人々をその御心に強引に従わせて、有無を言わせずコントロールするお方ではない。もちろん私どもを力尽くで従わせ、また従わない者を退けることがおできになるでしょう。しかし、まことの神、主イエスは、私どもに助けを求めるように手伝わせ、押しつぶされそうになるところに身を置くことのできる救い主であります。それは主イエスはまことの神でありながら、また私どものひとりとなってくださった、まことの人となってくださったということです。
なぜ人々は、主イエスを押しつぶしそうになるほどに集まってきたのか。しかも、このとき主イエスが伝道しておられたガリラヤだけではない、方々から集まってきたことが分かります。耳慣れない地名もあるかもしれませんが、四方八方から集まってきたということです。ティルスやシドンの地はユダヤ人ではない異邦人の町です。
そのようなおびただしく集まってきたのは、何としても病をいやしてほしいという思いからであります。当時、病は罪のためであると考えられていましたから、病がいやされないことは、罪もゆるされないことになる。そこには、二重の苦しみがありました。
そのような人々の思いをすべて受け止めて、主イエスはここに立っておられる。もちろん、近づく彼らは、主イエスのことが十分に分かっているわけではありません。自分たちの必要を満たしてくれる者として近づいているだけだと言うこともできるでしょう。まだ信じて従おうとはしていない。しかし、主イエスは、彼らの思いを受け止めて憐れんでおられるのであります。そこに身を置いて、押しつぶされそうにさえなっておられる。主イエスはここで心の内で祈っておられたのではないか。ここに留まり続けるべきか悩まれたのではないか。
私どもも、この主イエスと共に歩む必要があります。群衆は世の人々です。その悩みが深いことに触れて祈る必要がある。牧師としての小さな経験の中で、ほんとうに受け止めきれない大きな悩みや苦しみに触れることがあります。
弟子たちもこのとき、主イエスの傍らにいて、学んだのであります。そして、主イエスから助けを求めるられる。小舟を用意するようにということです。小舟でどうするかと言えば、小舟に乗ってそこを立ち去るのです。そこに留まり続けるのではなくて、先へと主イエスは歩みを進められた。それは、彼らの病気をいやす者としてだけ、そこに留まり続けるのではなくて、救い主として歩みを進められた。
本当の意味で、群衆のひとりひとりをいやすためにも、主イエスはそこに留まられなかった。十字架の救いの道へと進んで行かれた。いやしというのは、病の癒しだけではない。むしろ、罪の病からの癒しです。罪ゆるされて救われることは、自分をとらえている罪から癒やされることでもある。そのことは、自らをとらえている力や思いから救われることでもあります。
群衆が正しく主イエスが誰であるかを知らないときに、実に汚れた霊が叫んでいます。「あなたは神の子だ。」(11)ある意味でこの言葉は正しいことを伝えている。しかし、信仰の告白ではありません。汚れた霊は、ただ恐ろしくて叫んでいるだけです。
そこには、神への信頼も献身もない。ただ、自分たちの居場所を失うことへの恐怖をもって叫んでいるだけであります。
ですから、主イエスは、「自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」(12)のです。汚れた霊、悪霊によって、ご自分のことが知らされることを厳しく留められた。
主イエスは、やがてその時が来ることを知っておられました。弟子たちを通して、主イエスがどなたであるかが伝えられるときが来ることを知っておられました。そして、主イエスの教会を通して、救いの喜びが告白されていく時が来ることを知っておられた。
主イエスは、私どもが、自分ではどうしようもないものから解き放たれて、主イエスにとらえられていくよう招いておられるのです。救いの喜びをもって、感謝して祈りつつ礼拝生活を献げるよう招いてくださっている。私どもに御言葉を語りかけてくださって、小舟を用意して、主イエスをお乗せして一緒に福音を伝えようと言われる。
私どもの教会生活、礼拝生活は、主イエスをお乗せしている小舟ではないでしょうか。主イエスの恵みによって与えられた教会という小舟を、ふさわしく整えて祈りつとめることは、私どもに託されている喜ばしい使命であります。主なる神が、手伝ってほしいと言ってくださることは、ほんとうに畏れ多く感謝なことです。
小舟が動くためには、祈りの帆を上げて、御言葉と共に働いてくださる聖霊の風を受ける必要があるでしょう。何もしていないようで、礼拝を献げて主の御言葉を聞いて祈ることが、教会という小舟を動かし主イエスを持ち運ぶことになるのです。いや、礼拝での御言葉に導かれた祈りなくして、教会は動くことはできないのです。礼拝での祈り、教会の祈りは、自分のことだけを祈ることに、留まることはできないのです。たとえ礼拝堂に足を運ぶことができないようなときにも、教会に連なるそれぞれの家庭での礼拝、そこでの祈りが、神の恵みを持ち運ぶことを信じていくことができるのです。
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