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2021年8月1日(日)聖日礼拝(zoom)

更新日:2021年8月6日

【聖霊降臨節第11主日】


礼拝説教「実を結ぶ」

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 4:1-20


<讃美歌>

(21)26,12,132,459,65-1,27

 主イエスは、種を蒔く人のたとえを話されています。誰もが、よくわかるようにたとえで話されたのです。たとえの中に、主イエスの話を聞いている人のことが語られています。人々は耳を傾けながら、自分はどうなのだろうかと考えたはずです。

 私どもも、主イエスのたとえを聞きながら、自分のことが語られていると信じて聞くことができるのです。また、主イエスは、たとえを話されながら、主イエスご自身のことを語っておられるのです。このことはとても重要なことで、たとえを語りかけられる主イエスご自身がまた、そのたとえの結論を引き受けておられるのです。さばいて退けるためではなく、主イエスによって救いに入れられるよう、福音を語っておられるのです。

 有名な種まきのたとえが、福音として主イエスによって語りかけられていることに思いを深めていきましょう。


 さて、聞いていた人たちは、自分たちがいつもしている種まきのことがたとえられていますので、話されている内容はよくわかったと思います。4つの土地が出てきますね。道端、石だらけの土地、いばらの地、そして良い地です。

 当時、種を蒔く人は、広い範囲にばらまくようにしてまいたそうです。そして、その後に、すきを入れて耕した。ですから蒔く前にはそれが良い土地かどうかわからない。ある註解書には、休耕地に蒔くことが多い、とありますから、なおさら蒔く前にはわからないのです。

 主イエスの話を聞いていた人たちは、いつもの種まきのことだと思って、そのたとえを聞いていたでしょうが、しかし、良い土地の話は、耳をそばだてて聴いたのではないか。

 なぜかと言いますと、当時、10倍の収穫は豊作だったそうです。ですから、30倍、60倍、100倍というのは、あり得ない収穫です。

 主イエスの周りに集まっていた、おびただしい群衆は、あり得ない収穫を耳にすると、これはいったい何を教えようとなさっているのか、と考えたのではないか。

 主イエスは「耳のあるものは聞きなさい」(9)と言われました。

 直訳すると、聞くための耳を持つものは聞きなさい、あるいは、自らをして聞かしめなさい、となります。

 ここで主イエスがたとえて語られているのは、14節に「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」と記されていますように、神の御言葉の種です。神の言葉、キリストの言葉が種としてたとえられている。私どもは、種をまくことはできても、種を造り出せないでしょう。なおさら、神の御言葉の種を私どもは、造ることはできないのです。


 ある聖句を思い起こします。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない、すばらしい喜びに満ちあふれています。」(ペトロの手紙一 1章8節)読み進みますと、「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」(ペトロの手紙一 1章23節)とあります。ですから、「言葉では言い尽くせない、すばらしい喜びに満ちあふれて」いるその源には、「朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」という救いがあるのです。主の御言葉は朽ちない種であり、すなわち永遠なるものであるのです。

 イザヤ45:22-23「わたしは神、ほかにはいない。わたしは自分にかけて誓う。

             わたしの口から恵みの言葉が出されたならば

             その言葉は決して消されない。」

 神の言葉とはそれほどのものであるのです。しかし、この箇所では、その神の言葉の種がむだになって実を結ばないことがある、というのです。それはとても厳しい現実が語られている。せっかくの神の恵みを無にしてしまう、人の罪深さが語られているのです。


 種について語ってきました。では、このたとえの中で、「種を蒔く人」とは、誰のことでしょうか。誰がいったい神の言葉の種を、惜しげもなく、労苦を惜しまず蒔いているのでしょうか。ある神学者が指摘していますように、それは、主イエスのことであります。みんなが信じたわけではない、しかし、主イエスは神の言葉の種を蒔き続けられた。惜しげもなくまき続けられた。ここに明らかに、主イエスの救いの恵みが語られている。そして、聞く者の聞き方が問われているのです。

 14節で「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」に続く、たとえの説明では、4つの土地に蒔かれた種についてすべて、神の言葉が蒔かれることとそれを聞くことがひとつのこととして語られています。

 「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たち」(20)とありますが、「御言葉を聞いて受け入れる」ことから、実を結ぶ歩みがはじまるということです。


 このたとえを聞いて、自分は良い土地だからと安心する人はいないでしょう。十分に実を結ぶことができない者として、どきっとするのが普通のことです。しかし主イエスは、自分はどうなのだろうかと思うそこでこそ、愛をもって語りかけてくださっています。

 もともと私どもは、良い土地ではないでしょう。むしろ、神様がご覧になれば、道端や石だらけの土地であり、自らの身勝手な欲望で神の恵みを覆いふさいでしまう、いばらをはやす地であります。

 マルコによる福音書は、他の3つの福音書同様、主イエスの十字架と復活の後に記されたものです。弟子たちは、主イエスが十字架におかかりになるその時に、逃げ去った者たちです。その主イエスを捨て去った者たちが、神の恵みによって「立ち帰って赦され」福音書を記している。ですから、もともと良い地であって、神に喜ばれる実を30倍、60倍、100倍と結んでいるとは到底考えていないのです。

 むしろ、道ばたや、石地やいばらの土地のような自分達が、神の憐れみによって実を結ぶ良い地とつくりかえ続けていただいている恵みを記している。神の言葉を聴いて受け入れる幸いを語っているのです。


 主イエス・キリストほどに、父なる神に喜ばれる、神の御心を満足させる真実な実を結んだお方はいないのです。それに対して私どもは、神の御言葉に対して、もともと良い地ではないのです。自らの心の貧しさ、神が認めてくださるような実を結ばない者であることを、このたとえを通して教えられるべきであります。しかし、私どもを憐れみ、豊かに実を結ぶように導いてくださる主の恵みを信じることができるのです。


 道ばたや、石地やいばらの土地のような自分に、忍耐を持って見捨てることなく、御言葉の種をまき続けてくださる主イエスの恵みを感謝すべきであります。そのような主イエスの恵みを感謝できるところに、すでに実を結ばせていただく歩みがはじまっている。実りは何よりも、主イエスを救い主として信じていく、信仰の実りであります。しかも、信仰のない者に、信仰を授けてくださる恵みによる信仰の実りです。

 主イエスを信じて、感謝と喜びを持って神に祈り、礼拝生活を生きていくところに、すでに実を結ぶ歩みがはじまっているのであります。神の深い憐れみ、主の愛をいただいた者はまた、人をさばくのではなく、愛して実りを生み出すように祈っていく、神の愛と共に生きる実りが与えられるのです。


 

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