【聖霊降臨節第10主日】
礼拝説教「神の家族となる」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 3:31-35
<讃美歌>
(21)26,1,155,390,65-1,27
礼拝の喜びに生きることは、礼拝に集う者たちに常に与えられています、神の恵みです。恵みというのは、神様がお与えくださらなければ、私たちの力ではどうにも出来ないものという意味です。その恵みとして、礼拝によってでしか与えられない喜びに、主イエスは私たちを生かしてくださるのです。礼拝によってでしか与えられない喜びとは、何より主イエスの言葉、神の言葉を聴くことによって与えられる喜びであります。
ですから、ご一緒に謙遜な思いをもって主の御言葉を聴く必要があります。なじみのない言葉が出てくることがありますが、むしろそこから喜びが与えられることがあります。先ほど主イエスという言葉を自然に使いましたが、教会に来て間もない方には、わかりにくい言葉です。主とは、「あるじ」と書いて主(しゅ)と読みますが、神が私のお仕えすべきお方だということです。主とは、元々の聖書の言葉で、所有者や支配者を意味しますが、神様のことです。ですから、イエスを主と言い表すのは、それだけで信仰の告白になっています。イエスが神であって、私を罪から救い恵みによって支配してくださるお方だということです。
マルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語りはじめています。イエスのことを、神の子イエス・キリストと言い表しているのです。「神の子」という言葉は、マルコによる福音書によく出てきますが、イエス・キリストが「神の子」であるというのは、イエス・キリストを見るときに、私たちは神を見ることができるということです。「神の子」というのは、歴史に名を連ねる偉大な人物という意味ではなくて、イエスを知るとき、私たちは、神に出会い、信仰を与えられ、喜びを与えられるということであります。
イエス・キリストという名は、イエスが名字で、キリストが名前という風に理解されている方があるかもしれません。もちろんそれは正しくないのですが、このイエス・キリストという名は、キリスト教会がとても大切にしてきた名です。
イエスというのは、神は救い、という意味ですが、当時としては、珍しい名前ではありませんでした。旧約聖書の言葉ではヨシュアとなります。ですから人々は、他のイエスと区別するために、育った地に因んで、ナザレのイエスと呼んだりしていました。
人々は、ナザレのイエスがキリスト、すなわち救い主であるとは、自分たちの力ではわからなかったのです。神が恵みにより、信仰を与えてくださらなければ知ることができなかった。イエス・キリストというのは、イエスがキリスト(救い主)であるという、もっとも短い信仰告白でもあります。
さて、礼拝において、神に出会い、信仰を与えられ、喜びに生かされようとしているときに、私たちは、説教の聴き方に共に注意を払う必要があります。
著名な加藤常昭先生の主催される説教の学びに何度も参加したときに、説教者自身が、自分の外から与えられるキリストの言葉、神の言葉を聴き取る大切さを教えられました。その意味では、礼拝の説教において、共に私たちの外から与えられる神の言葉を聴いているのです。そのために説教者自身がまず問われているのです。それはとても厳しいことですが、同時に喜びであります。
教えられたのは、与えられた聖書の箇所を、まるで手でなぞるようにして読む。そして、何か引っかかる箇所が必ずある、そここそ大切にしなければならない。引っかかっているというのは、小さな自分では聴き取りきれないからです。あるいは、自分のもっているものが改められて、神へと向き直るように語られているから引っかかるのです。
今日与えられています、マルコによる福音書3章31節以下で、もっとも心に引っかかったのは、35節の言葉です。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」なぜ引っかかるのか。「神の御心を行う人」とは誰のことなのか。わたしに語られていると言えるのか。自分は到底「神の御心を行う人」とは思えないので引っかかるのです。
御言葉の理解のために直前の箇所から光が差していることがよくあります。
この箇所は、20節からをまとめて説教されることが多い箇所です。27節で主イエスは自らを悪しき者から私たちを奪い取る者としてたとえておられます。主イエスは、命がけで私たちを悪しき者から奪い取ってくださった。そのことが語られた主イエスの言葉に続くのがこの箇所です。ですから、「神の御心を行う人」とは、まず誰を意味しているのか、直前の箇所の光のもとで聴く必要があるのです。
悪しき者の支配から救い出されて、主イエスによって神のものとされた者というのは、キリスト者のことであります。キリスト者というのは、神の家族とされた者たちでもあります。悪しき者の支配から連れ戻された者たちは、ただ恵みによって神の家族とされたのです。努力に努力を重ねて、神の御心を行ったから、褒美に神の家族に加えられたのではないのです。そこには、まず、神の家族とされた、という恵みの関係がまずあることをしっかりと押さえておく必要があります。「神の御心を行う人」とは、まず、恵みによって神との正しい関係に入れられた者、信仰を与えられた者であります。
さて、イエスの家族は、イエスを連れ戻しに来ています。主イエスの身内の人たちは、自分たちの理解を超えた言葉を語り、わざをしている主イエスを取り押さえに来ているのです。自分たちのところに連れ戻そうとしているのです。彼らが外に立っているというのは、単に場所だけの意味で外に立ってるということではないでしょう。神の家族とは誰かという、その恵みにおいても、その信仰においても外に立っている。
あなたの家族が外であなたを捜していますと告げる人々に対して、主イエスは語られます。
主イエスは周りに座っている人を見回して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」(34)主イエスから、自らの家族として、すなわち神の家族だと言われた人たちは、主イエスの周りに座っていた人々です。彼らは、神の御心をすべて余すことなく行っていたわけではない。しかし、主イエスとのふさわしい関係の中にいたのであります。それは、キリストの言葉を、神の言葉を聴く者として、周りに座っていたのです。
そのことは、私たちにとって、礼拝においてキリストの周りに座っていることでもあります。礼拝は、主イエスの周りに座って、キリストの言葉を聴く時であります。
イエスの周りに座っていた者たちは、やがて十字架を目前に控えて、主イエスを捨て去り、逃げ去ったことをマルコによる福音書は告げています。イエスを捨て去った弟子たちは、もはや神の家族ではなくなったのか。そうではないのです。「ここに、わたしの家族がいる」 と言われた主イエスは、ご自身を裏切り、捨て去っていった弟子たちをも赦して、神の家族として愛しぬかれたのであります。彼らはやがて、主イエスの愛に変わりがないことを知ったはずであります。
ヨナという預言者も、神の愛に変わりがないことを知ったのです。神の方から自分を見捨てられることがないのだということを知った。ヨナは、ニネベという町へ行って神の言葉を語り伝えることを拒んで、神の御心に反して逃げ去った。嵐に遭い、海に投げ捨てられて、もはや神から見捨てられたと思い込んでいた。しかし、そこにもなお、神の赦し、憐れみがあったのです。
ヨナは、さらに神の御心を行うよう導かれていった。ニネベの町へ行くことができたのです。もちろん、ヨナは、神の御心そのものではない。神の愛に働きかけていただき、ヨナは神の愛に触れ続けていったのです。
マルコによる福音書において、神の御心について記されている箇所は、ここともう1カ所しかありません。それは、軽んじているのではなくて、むしろとても大切にしているからです。この箇所と響き会っているもう1カ所は、ゲツセマネの園で、十字架を控えて、父なる神の御心を祈り求められている箇所です。主イエスは祈られました。「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」その祈りは、私たちを神の家族に加えるため、ご自身の周りに座る者を、赦して神の家族とするためであります。
文字通り、神の御心を行う人は、主イエス・キリストただおひとりであります。主イエス・キリストは、神の御心そのものであります。
私たちは、主イエスの救いに与り、その命をいただいて、はじめて、神の御心を行う行いを与えられていくのであります。主イエスの周りに座り、礼拝の喜びに生かされ続ける中で、ふさわしい行いをも生み出していただくのです。神の捉えきれない恵みに私たちを引きずり込むようにして、主イエスは語っておられる。
「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
主イエスは、その周りに座り、礼拝において神の言葉を聴く者を祝福してくださるのであります。御言葉によって神の御心を聴く者はまた、恵みによって神の御心を行う行いをも与えられ続けることを信じて、礼拝において主イエスの周りに座り続けていきましょう。
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