【聖霊降臨節第9主日】
礼拝説教「真実な言葉に生きる」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 3:20-30
<讃美歌>
(21)26,210,51,481,65-1,27
私どもは思いがけないことに直面することがあります。思いがけないことで、どうして自分がそのようなことを身に受けるのか、理由を見いだせないことがあります。しかしそのようなときこそ、主イエスのお苦しみを通して、慰められることがあります。それは主イエスこそ、お苦しみになる必要のないところに立ってくださったからです。どうして、と思える経験を通して、主のお苦しみ、神の愛を知ることができるのです。
主は、人々からすぐには受け入れてもらえないところに立ってくださったのです。それは人の弱さ、罪深さゆえに、主なる神をすぐには受け入れることができないことをよく知って、愛をもって導いてくださったということでもあります。
ですから、主が私どものためにお苦しみくださったそのお姿と御言葉に思いを深めて、主の愛を知り慰めを与えられていきたいと願います。
私どもにとって、自分を全く受け入れてもらえない、理解してももらえないのは、人として本当につらく厳しい経験です。私どもはそのようなところに立ち続けられるでしょうか。
この箇所で、主イエスは、周りの者たちから、理解されていない。そればかりか、身内の者たちからは、「気が変になっている」と思われた。この「気が変になっている」という言葉は、「自分の存在の外に出ている」という意味合いの言葉です。決して、主イエスがおかしくなっておられたのではなくて、周りの者の理解を主イエスが超えてしまっておられたからです。
悪霊を追い出し、病をいやしていかれたばかりでなく、救い主としての歩みを開始して、私どもが神へと向き直り、罪赦されて救われるように招かれた。身内の者をはじめ人々は、イエスが救い主であり、神の独り子であるとは、到底信じられなかったのです。
では、だれが信じられるのか、という問いがあります。聖書にあるその答えは、主イエスを信じることにおいて、そこに神の働きがなければ主イエスを救い主と信じることはできないということです。
主よ、私にも分かるように教えて、信じることができるようにしてください、と祈る必要があります。神の霊、聖霊の助けを求める必要がある。自分で信じようとしても、信じられないのが普通のことです。
当時、自分の力で力強く信じていると、自負しているような人たちがいた。それは、宗教的指導者である律法学者たちであります。彼らは、ガリラヤにいるイエスを非難するために、わざわざエルサレムから旅をしてやってきた。そして、こともあろうに、神の霊、聖霊によって働きをなしておられる主イエスを非難して、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。
私どもであれば、自分を非難する者に、愛をもって接することはとても難しいでしょう。まして主イエスのように、神の愛をもってなお教えていくことはできないのです。理由のないお苦しみをその身に受けてくださり、さらに愛をもって導かれたのです。主イエスは非難する彼らを呼び寄せられたのですが、この言葉は、弟子たちを招き入れられて弟子として呼び寄せられたときと同じ言葉です。主イエスは、敵対する者をも愛して招き入れ弟子となるように招いておられるのですが、律法学者は全くそのつもりがない。別な言い方をすれば、神に愛されていることが分からないで、ただ非難して退けているのです。
しかし、痛みをもって受けとめるべきことですが、この箇所で退けられているのは、イエスが悪霊によって悪霊を追い出していると非難した者たちであります。もし彼らが、主イエスを受け入れずに、そのお働きを悪霊の働きとし続けるなら、彼らが、罪赦されて救われることがないのは明らかなことです。
そのことが29節に語りかけられています。主イエスが「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(29)と言われた言葉に、多くの人々が悩んできました。もしや自分は、赦されない罪を犯したのではないか。しかし、この箇所には極めて明確な言葉が語られている。それは、「聖霊を冒瀆し続ける者は」、ということです。主イエスの罪の赦しなど意味を持たないと、信じ続ける者となるということです。ある人は、そのようなことはあり得ないと言った。むしろ、「人の子らが犯すどんな罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」(28)という言葉をこそ信じるように主イエスは招いておられるのです。「すべて赦される」という真実な神の言葉を信じて受けとるように招いておられるのです。
主イエスはたとえを語りかけておられますが、そのたとえの中で、命がけで捕らわれている人を解き放ち、その苦しみや悩みから救う者の姿があります。強い人に捕らわれているその家の者を奪い返すためです。それはまさに、主イエス御自身のことです。それは、神の赦しを与えるために命を献げられることをたとえて言われているのです。
マルコは命を献げられた主イエスが復活され、私どもに「すべて赦される」と語りかけてくださっていると信じて記しています。「すべて赦される」、それは、真実な神の言葉です。真実な神の愛の御言葉です。
私どもは人が赦してくれると言っても、また神がすべて赦します、と言われても、自分で自分を赦すことができないことがあります。それもまた罪であります。自分を縛っていくことであるからです。
そのような思いになるときに、振り返ってみれば、もう少しがんばればできたと思い込んでいることがあります。しかし、実際はできないことがあることを受けとめていないことがあります。そればかりか、どんなに神と人とに助けられてここまで来ることができたかを忘れてしまっていることがあるのです。
また逆に、神が働いてくださって、どんなに豊かに用いようとされているかを信じないで、できないと思い込んでしまうこともあるのです。私どもはもっと、主なる神の働きを信じる必要があります。主イエスが命を献げて信じるよう招いておられるのは、すべてを赦して受け入れることができる、愛なる神のお働きです。
主イエスのお働きは、主イエスの御言葉に伴う、神の聖霊のお働きです。
聖霊は、元々の言葉では息とも訳すことができます。ある方から伺ったのですが、大きな手術をされて目を覚ましたとき、息をしていることに、今まで経験しなかったような感動を覚えられたというのです。私はお話ししたのですが、聖霊は元々息という意味もある言葉です。神様が私どもに命の息を吹き入れられて人が生きているように、礼拝において、聖霊は御言葉と一緒に働いて、私どもに御言葉によって息をさせてくださる、御言葉の喜びに生かしてくださるのです。
「すべて赦される」との御言葉を信じて、私どももまた、赦す人となるように、聖霊のお働きによって愛の息をさせていただきましょう。
主イエスが、私どものいっさいを赦し受け入れてここに生かしてくださっていることを信じて、聖霊のお働きによって互いを赦し受け入れ、共に祈って礼拝生活に励んでいきましょう。
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