【聖霊降臨節第8主日】
礼拝説教「命がつながる」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 3:13-19
<讃美歌>
(21)26,7,208,402,65-1,29
この日の礼拝に与えられていますのは、主イエスが12人の弟子を選ばれた有名な箇所です。主イエスが12人を祈りをもって選ばれた、その選びに、憐れみ深い神の恵みがあらわれています。その神の恵みは、私どもにも向けられていますことを信じて、主の御言葉に思いを深めてまいりましょう。
「12人を任命された」(14、16)とありますが、「任命された」という言葉は、興味深いことに、元々「造られた」という言葉です。ですから、主イエスはここで、12人をお造りになった、と訳すことができる。ある神学者は、「12人を創造された」と訳しています。とてもすばらしい訳ですね。
主イエスが12人の弟子たちを創造された。その意味では、キリスト者というのは、主イエスを救い主と信じて、新しく造っていただいた者です。それは、主イエスに創造していただいた者ということができます。ただ、決して別の人格になるわけではないのです。
主イエスが弟子たちを造られたとき、ある意味で、彼らをそのまま用いられました。彼らの個性、その弱さや欠点さえも用いてくださったのです。しかし別の意味で彼らはそのままではなかった。弟子たちは主イエスによって用いられ、新しい使命に生きるようになったとき、新しくされた。新しくされ続けたのです。そこには、およそ人の知恵では考えられない歩みがありました。
12人の弟子たちは、主イエスを中心にしていなければ、共に集うことなど、決してなかったはずの者たちです。たとえば、熱心党のシモンという弟子がいました。彼は、元国粋主義者ということができます。ユダヤの国をローマから独立させるためには、いかなる手段も辞さない。暴力にさえ訴えていいと思っていた。
その熱心党が最も忌み嫌っていたのが、徴税人です。ユダヤ人でありながら、ローマに仕えてユダヤ人から税を徴収してローマに仕えているのですから、裏切り者のように思っていたはずです。12人の中にマタイという人がいますが、この人は元徴税人です。この二人は、主イエスが中心にいてくださらなければ、決して心を合わせることはなかった二人です。
あるいは、「雷の子ら」という名前を主イエスからつけられた弟子たちもいます。多くの人たちは、熱血漢で気が短くすぐにカッとなったのだろうと想像します。正義感が強すぎたのかもしれない。おそらく、普通に気が短かかったのだと思います。言葉を荒げることがあっても不思議ではない。しかし、ある人は、ヨハネの黙示録6章1節に「雷のような声で『出てこい』と言う」とあるように、神の真理を告げる声が雷のように響くことと重ねて理解します。ヤコブとヨハネは初代教会の中心的な牧会者となっていったようですから、彼らの個性はやがて、神の真理を告げる力強い声として用いられていったと考えることもできるのです。
そのように主イエスは、12人の弟子たちを新しく創造していかれた。ご自身の新しい命に生かしてくださった。彼らを、すべてを赦して用いていかれたのです。
マルコが告げていますことは、12人の弟子を選ばれたときと同じ恵みが、なおも教会に与えられているということです。主イエスはいまもなお、ある意味で、私どもをそのまま用いてくださる。御自身のもとに来る者を、罪赦して救ってくださる。個性や、弱さ、欠点さえも用いてくださるのです。用いられた弟子たちは、主イエス・キリストを宣べ伝え、その救いを生きて伝えていくという新しい使命に仕えていきました。
弟子たちが新しい使命に生きるようになったとき、主イエスによって、新しくされ続けたのです。私どもも、主の使命に生きて新しくされ続けることができるのです。
また主イエスからの使命に生きることは、迷いやすい私どもを守っていくのです。そのことは確かなことでありますが、どうしても理解に苦しむことをマルコは記しています。12人の弟子の内で、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダのことです。マルコはどのような思いで記したのでしょうか。
「このユダがイエスを裏切った」とありますが、マルコは、あいつは裏切り者で、最初から加わらない方がよかった、と思って退けているのでしょうか。決してそうではないはずです。マルコは、自分達の仲間のひとりから、主イエスを裏切る者が出てしまった、そのことへの痛みをもって記しているのです。
ある人は、主イエスを裏切るというのは、主イエスを愛さなくなることだと言いました。ほかの弟子たちもまた、十字架にかかろうとする主イエスを捨てて逃げ去ったことは有名な話として聖書に記されています。
マルコ福音書の背景にある教会も、そのような弟子たちの姿に痛みをもって、自分達を重ねているのです。そして、神の赦しと憐れみを祈り求め、また同時に、限りない赦しを信じて記しているのです。自分たちのような者が主に受け入れられて用いられている、その限りない主イエスの救いを喜んで新しい使命に生きていったのです。
先ほど申しましたように、教会に与えられた使命は、主イエスをお伝えすることです。主イエスの救いを喜んで生き、そして伝えていくことです。私どももまた、主イエスを信じて洗礼を授けられるときに、新しい使命を与えられる。それは、主イエスを喜んで生きていくことです。そのようにして、主イエスをお伝えしていく使命が与えられることは私どもを喜びに生かして、絶えず新しくしていくのです。
大切なことは、使命というのは、くどいようですが主イエスを喜んで生きていくことです。その喜びがまた、教会生活の営みを生み出していく。ここに献げている礼拝はまさに、主イエスを喜んで生きていることそのものです。主イエスの使命に生きているのです。
ですからある神学者は、教会は、礼拝の度ごとに新しくされる、という意味のことを言った。それは、主なる神からの新しい命に生かされて命をつないでいくことでもあります。この礼拝が、生きる支えになっていくのです。
日々に食べていて、これで明日も生きていける、と命がつながるように思うことは、日頃は自覚しないかもしれない。しかし事実、日々に食することによって、命がつながっているのです。
同じように、礼拝の度ごとに、主なる神から、命の糧をいただいて、私どもの霊的な命がつながっている。私どもの信仰の命の源が、礼拝で主の御言葉の糧をいただくことにあるのです。主に生かされている互いもまた、主を中心にしてつながるのです。その命のつながりをひろめるよう、主は働いてくださっているのです。主の働きに、私どもを用いてくださることを生涯感謝して生きていきましょう。
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