【聖霊降臨節第3主日】
礼拝説教「神の招きはあなたにも」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書2:13-17
<讃美歌>
(21)26,120,141,434,65-1,29
礼拝に集まることができないことは、大きな苦難です。しかし、かつて初代教会は厳しい迫害の中、自由に集まって礼拝することができませんでした。先が全く見通せない中で主にゆだねて祈る中、主の御言葉によって慰めを得ていきました。
このように語りはじめて説教したのは1月17日のことで、今日と同じ箇所です。覚えておられる方もあると思いますが、感染症のため実際に集まることができず、またZOOM礼拝もはじまっていなかったので、説教原稿を配布していただきました。およそ5ヶ月がたって、いまだ厳しい状況ですが、主が必ず導いてくださることを信じていきましょう。
マルコ福音書は、主イエス・キリストが復活なさったあとに記されたものです。復活された主が、いまもなお同じように働きかけてくださっていると信じて記しているのです。もちろん、マルコ福音書が書かれた頃には、復活された主はすでに天に昇られています。実際にお目にかかることはできず、主が聖霊として再び来られて教会を生み出してくださった、聖霊の時代を迎えていました。そのようなときに、目には見えないけれども、主が共にいてくださって、御言葉によって働きかけてくださると信じてマルコは記したのです。
ですからマルコ福音書の時代の教会は、かつて起こった主の出来事であると共に、今もなお主は福音書に記されているように、御言葉をもって働きかけてくださっていると信じたのです。
今日の箇所で、レビというひとりの人が主イエスによって招かれています。主イエスと出会ったのです。その出会いは、私どもにも与えられている出会いでもあって、主は私どもひとりひとりを招いてくださっているのです。私どもも、主なる神が、目には見えませんけれども共にいてくださり、御言葉をもって招いてくださることに心を傾けていきましょう。
レビという人は、主イエスとのどんな出会いを与えられたのでしょうか。主イエスは、レビが「収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた」(14)とあります。これは驚くべき招きでした。当時、収税所で働く徴税人は、神の招きの外にいると思い込まれていたのです。もっとも神の招きに遠い人と思われていました。
どういうことかと言いますと、収税所というのは、税を集めるところですが、当時、ローマは、税を集める権利を売っていた。その権利を買ったユダヤ人が、しもべを使って税を集めたのです。おそらくレビは、税を集める徴税人の一人であったでしょう。
権利を買った徴税人の頭は、買った値段に見合うように、余分に集めました。何倍も取り立てることは普通のことだったようですから、人々に忌み嫌われていた。しかも、ユダヤ人なのに、自分たちを支配しているローマに仕えて、同胞のユダヤ人達から税を集めるわけですから、だれも仲間だとは思わなかったでしょう。神に見捨てられていると思われていた。人間関係を持とうと近づいてくれる者はいなかったはずです。イエスのところへ行こう、と声をかけてくれる仲間などおよそあり得ない。孤独であったと思います。
しかし、町の人々を愕然とさせることが起こった。それは、イエスとはいったいどのような方なのだろうと、分からなくなるようなことが起こったのです。レビ自身も、全く思いがけないことに驚くのです。それは先ほど申しましたように、主イエスが、「通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。」からです。
「わたしに従いなさい」という、主イエスの招きの言葉を聞いて、レビは耳を疑うほどに驚いたでしょう。しかし、自分が待っていた神の言葉だと信じるようになったはずです。これこそ、自分が深く願っていたことだと分かったということです。
マルコ福音書は先ほど申しましたように、レビへの主イエスの招きは、私どもへの招きでもあると信じて記しています。主は私どものところにも近づいて、「わたしに従いなさい」と命じて、神の愛によって動かしてくださるのです。
主なる神の招きは、「わたしに従いなさい」という招きです。私どもを愛して、赦し受け入れてくださるからこその招きですが、主の招きに応えるということは、主に従っていくということです。
どのように主に従うのでしょうか。それは、主イエスにならってついていくのです。主イエスの御言葉を信じて、その御言葉の豊かさに生きようとすることです。もちろんそこには、主なる神の助け、すなわち聖霊のお働きなくしてはあり得ないことです。聖霊のお働きに支えられて主に聞き従おうとするときに、教会がとても大切にしてきた主の御言葉があります。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)
この招きの御言葉は、教会がいつも立ち続けている御言葉です。
教会が人間的な正しい人の集まりになりますと、そこに愛を失っていくことがあるのです。あれっと、思われるかもしれません。正しく生きよう、正しく歩もうとするのは、私どもがいつも考えるべきことだと思われるでしょう。もちろん、教会も、主の御心に従って、正しく歩もうと求め続けているのです。しかし人間的な正しさが問題なのです。罪深い私どもは、人間的に正しさだけを追求ししますと、どこかで行き詰まることがある。
主イエスを非難した当時の指導者もそうでした。律法学者やファリサイ人は、正しさに生きて、品行方正さのお手本だったでしょう。しかし自分で自分の正しさを追求すると、どこかで自分を正しいところにおいて他者をさばいてしまうことがあるのです。
自分を正しいところにおいて、他者を非難することは、身に覚えのあることではないでしょうか。主の教会は、自分を正しいところに置いている人たちの集まりではなくて、罪を赦された者たちの集まりです。
私どもはいつも、たとえどんなに信仰生活を重ねていても、正しい人として神の招きを受けるのではないのです。人間的な正しさには限界が有り、神様の救いを受けるほどに正しい人は誰もいないと、聖書は告げているのです。
きわめて大切なことは、私どもはいつも、罪人として主の招きを受けとることです。
罪人というのは、神様に赦される必要がある人、完全でなく、主の助け無しには生きることができない人のことです。その意味では、すべての人が招かれているのです。へりくだって主の招きを受けとるように招いておられるのです。主の招きによって罪の赦しを受けとるべき者として、赦された罪人として、主の招きに応じることができるのです。
さて、マルコは復活された主がいまも同じように働いておられると信じて記したと言いました。しかし、みなさんの中には、どうして自分や自分の心にかけている方には、聖書にあるようないやしの奇跡が起こらないのか、と思われる方もあるのではないでしょうか。
実はその思いは、マルコの時代にもあったことです。すべての人がいやされたのではないのです。病のいやしを与えられずに信仰を抱いて生きた者たちはどのように信じていたのでしょうか。彼らの信仰生活を垣間見る、注目すべき言葉が記されています。
直前の箇所ですが、主は体の麻痺した人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(11)と命じて、いやされました。この「起き上がる」という言葉は、主が復活された時と同じ言葉が使われています。主が復活された、という言葉は、主が起き上がられた、すなわち死から起き上がられた、という意味です。
マルコの教会の者たちは、やがての日に、この地上の生涯を終えて主にお会いする日に、主が「起き上がりなさい」と死から起き上がらせてくださる、その時にはすべてをいやして守り導いてくださると信じていったということです。「子よ、あたなの罪は赦された」「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」との主の御言葉に生きて、やがての日のいやしを待ち望んだということです。
私どもも、やがて主が「起き上がりなさい」と御言葉をもって導いてくださることを信じて、主にゆだねてまいりたい。
マルコ福音書はここまで、数々の奇跡を記してきました。私はある神学者にならって、七つの奇跡と呼んでいます。シモンとアンデレたち4人の弟子を選ばれてから、12人の弟子を選ばれる間に七つの奇跡の出来事がある。おそらくみなさんが丁寧に読み返されますと、六つしかないと思われるかもしれません。七つの奇跡というのは、今日のレビの救いを入れての七つです。七つの奇跡の中心にある、奇跡の中の奇跡であります。
罪人が招かれて救われることの奇跡です。
私どもが主なる神に招かれ、罪を赦されて救われることにまさる奇跡はないのです。罪を赦されて救われるということは、罪から起き上がって神の聖なる命に生きる奇跡です。
私どもの誰ひとりとして、神の招きにふさわしい者はいないはずです。
しかしふさわしくない者を、神は愛をもって招いてくださっているのです。
実にもったいない神の招きであります。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と愛をもって招いてくださっている救いの奇跡を生きていきましょう。
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