【聖霊降臨節第6主日】
礼拝説教「心の伸びをしよう」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 2:23-3:6
<讃美歌>
(21)26,358,165,532,65-1,29
与えられています箇所は、「ある安息日に」とはじまっています。安息日というのは、私どもで言うと、日曜日のことです。私どもに安息日が与えられているのは大きな恵みです。かつて旧約聖書の時代、安息日は土曜日に守っていました。しかしキリスト教会は、主イエスが十字架におかかりになった後、日曜日の朝に復活されたので、それを喜び祝う日として、日曜の朝に礼拝を献げてを安息日を守るようになりました。ですから私どもは、礼拝のたびごとに、主の復活を喜び祝っています。人にはどうしようもない死を乗り越えて主が復活されたということは、主はいかなることにもお働きになることができるということです。困難を自分たちの力によってではなくて、神が与えてくださる恵みによって乗り越えていくことができる。そのように主の復活の命に生かされることは、礼拝の中でいつも与えられている恵みです。神の御言葉に養われることによって、共に主の恵みに生かされていきたいと願います。
安息日はそもそも、旧約聖書に記されている天地創造の時に定められました。神が六日間で天地を創造され、七日目に休まれて、その日を祝福して聖なるものとされたことから、安息日が与えられました。(創世記2:1-3)主イエスは安息日について、「人のために定められた」(27)と言われます。神が休まれるためではなくて、むしろ人が休むことを必要としているためにお定めになった。ではどのように休むのでしょうか。
安息日は、主なる神が聖別して神のものとされたので、聖日とも呼びます。また、主(あるじ)と書いて主(しゅ)というのは、お仕えすべきお方、という意味合いで神様のことです。ですから安息日は、神が祝福された神の日という意味で、主日とも呼びます。
主日、聖日はただ休むのではなくて、主と共に、主イエスと共に憩い、休む日です。主イエスの言葉によってこそ休み、安息が与えられるのです。神の言葉がその中心になくては、本当の意味での安息にはならないのです。私どもが、神の言葉によって養われることが安息日であります。
主イエスは、「人の子は安息日の主でもある」(28)と言われます。「人の子」というのは、文字通りは人間という意味ですが、聖書の中では、約束の救い主に用いられている言葉です。弟子たちも自分たちのことを「人の子」とは呼びませんでした。ですから、主イエスが自ら、「人の子は安息日の主でもある」と言われたのは、安息日が、救い主である主イエスと共に過ごす日であるということです。主日は、主イエスの御言葉に養われて、新しい命をいただく日であるのです。
この箇所で主イエスは、形式的に安息日を守ることに終始してしまっているファリサイ派の者たちの批判を退けておられます。当時、畑の中に入って麦の穂を摘んで食べることは、かまわないことでした。麦の穂を摘んだ日が安息日であったので、安息日に禁止されている労働のひとつにあたると彼らは批判しているのです。
ファリサイ派の者たちからの問いかけに対して主イエスは、麦の穂を摘んだことが労働にあたるがどうかという、彼らと同じ次元では話をされません。むしろ、こう答えておられる。ダビデたちが何もなくて飢えたとき、「ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(26)ダビデは神の掟、律法に違反して罪を犯しているのではない。それは本来律法が、神の恵みから出ているもの、人を縛るためにあるのではないからです。
神の掟、律法が与えられたとき、そこにはまず、神の救いの出来事がありました。その一番もとにあるのは、出エジプトの出来事です。奴隷の生活から救い出された。そのことは、単に社会制度上の問題に終わらないのです。人が罪のもとにあって、罪の奴隷とも呼ぶべき、罪に病んで生きている、そこから救い出されるということでもあります。その救い、神の恵みがまずあって、それに応える道として、律法が与えられたのです。ですから、あまりにも律法に縛られて、神の恵みを失うならばそれは律法の命を失うことであります。ダビデがただ律法を守ることにとらわれて、飢えたときに供えのパンを食べなかったならば、それはかえって律法を与えた、恵みの神の御心を悲しませることになるのです。
主イエスは、ファリサイ派の人々の批判を退け、「人が安息日のためにあるのではない」と言われます。この言葉は、ただ形式的に律法を守ることにとらわれて、神の恵みを失ってしまった、彼らへの愛を込めた語りかけであります。
しばしば思うことですが、ファリサイ派の人々の問題は、実に私どもの問題でもあるということです。ファリサイ派の人々が自分たちとはほど遠い、当時の特別な人々と思うなら、それはマルコによる福音書の語る、神の言葉を十分に聞き取ってはいないのです。
ファリサイ派の者たちは、神の教えを守ることに、命がけで熱心でした。しかし、まさにそこで病んでいったのです。彼らは真剣な余り、自分たちを正しいと自ら思い込むようになった。そして、自分たちが正しいと思い込んでいる彼らの決まり事についてこない者たちを、批判した。罪人とさえ呼んだのです。
しかし、自分を正しいとして罪に病んでいくことは、人が陥りやすい、私どもの問題でもあるのではないでしょうか。ほんとうに神様のように正しければいいのですが、狭いところで正しいと思い込んでしまうところに問題があるのです。互いが自分は正しいと思い込んでいるところでは、話せば話すほど溝が深まり、傷つけあうものであります。家族の中で、身近な人間関係の中でそれは起こるのです。教会の中でもそれは起こりうるのです。
互いが正しい思い込んで傷つけあう、その最たるは、戦争ではないでしょうか。
私どもがおかれている世界の現実と、この箇所に記されている、主イエスの悲しみとが重なっていく思いがいたします。
聖書の中で、主イエスの感情が記されているのは決して多くありません。ごくわずかです。その主イエスの悲しみは、「彼らのかたくなな心」(3:5)に対する悲しみです。自分たちを神に従う正しい者たちと思い込み、かたくなになっている。自分たちの築き上げてきたものを壊す者には、殺意さえ抱く。いや本気で主イエスをどのようにして殺そうかと相談しはじめているのです。ファリサイ派の者たちが主イエスに抱いた殺意、そのかたくなな心を主イエスは悲しまれました。
私どもがおかれている世界の現実を見ますときに、そこには修復不可能に思える、報復の連鎖があります。復讐に継ぐ復讐です。決して正しい戦争というものはないはずで、私どもは嘆きます。私ども以上に主イエスは、深く罪に病んだ人間の現実を見抜かれた上で、嘆いておられる。しかし、主イエスの悲しみにふれることは幸いであります。
手のなえた人を真ん中に立たせた主イエスは、怒りをもって人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しまれます。そして、その人に「手を伸ばしなさい。」と命じられます。手は元通りに癒されました。
手のなえた人は、主イエスによって癒されました。しかしよく考えて見ますと、主イエスに癒していただくべき者は、他にもいたのではないでしょうか。主イエスに癒していただくべき、心かたくなで心のなえた人々がいたことを、マルコによる福音書は告げているのではないでしょうか。私どもはどうでしょうか。
エレミヤ書の言葉を思い起こします。
「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。
あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。
あなたをこそ、わたしはたたえます。」(17:14)
神の言葉を伝える預言者としてのエレミヤは、民の罪の現実と共に、自らに気づかせられた人です。自分を正しいと思い込んで、人々を裁くように神の言葉を伝えていたのではないのです。自分こそ神のいやしを必要としていると、民を代表するかのように告白しているのであります。
「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。」
主イエスは言われます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(2:17)
私どもは主イエスの前に、いやしを必要としている者としてひざまずいているでしょうか。いやしというのは、病気のいやしのことだけではありません。むしろ、病気のいやしよりも、主イエスが語られているのは、罪の病からのいやしです。自らの狭い世界に住んで、自分は間違っていない、正しいと思い込むように言い聞かせなければ生きていけない、罪の病からのいやしであります。私どもは、罪の病からのいやしをたえず必要としているのであります。それは、罪の赦しを必要としているということであります。洗礼を授けていただくというのは、生涯、神の赦しのもとに、罪の赦しのもとに生きていく喜びの生活を歩むということであります。
主イエスは、怒るほどに愛して、私どもを見回し、そのかたくなな心を悲しんで言われます。
「手を伸ばしなさい。」
「あなたの心を伸ばしなさい。
わたしはあなたを癒すことのできる神、主である。
わたしはあなたを愛するがゆえに命じます。
日々に罪赦され、癒されて、神に受け入れられている喜びを生きていきなさい。」
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