【聖霊降臨節第5主日】
礼拝説教「新しい器となる」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 2:18-22
<讃美歌>
(21)26,16,211,514,65-1,29
ある時、吉祥寺教会に吉岡先生ご夫妻をおたずねしたのですが、礼拝堂を見せていただきました。吉祥寺教会の礼拝堂をご存じの方もあるかもしれませんが、説教台が正面に向かって左側の、とても高いところにありました。それを見て、私はある話を思い出しました。ドイツのある長老教会では、説教者である牧師を長老が、説教壇まで連れて行くそうです。そして、説教が終わると、また長老が迎えに行く。ただし、迎えに行くのは説教者が正しい信仰、すなわちイエス・キリストの福音を語っていることにおいて迎えに行くのだそうです。実際に迎えに行かなかったことがあるかは知りません。ただ、語る者も、聴く者も共に、イエス・キリストの福音を正しく教えられていくことをどこまでも大切にすべきであります。
正しさというと、冷たく感じるかもしれません。確かに神の正しさという意味の、神の義という言葉が聖書にはよく出てきます。神の義というと、神がその正しさで人を裁いていかれるような、ある意味で恐いイメージを持たれるかもしれません。
しかし神の義という言葉は、本来、神の愛と言い換えてもいいような、深い意味合いがあります。神の正しさは、私どもの持つ、人間的な正しさとは全く違うということです。私どもは正しさに生きるときに、そこに愛を失うような、冷たい正しさに陥ることがあるのではないでしょうか。しかし主なる神は、義なるお方、正しいお方であるがゆえに、救いを与えていこうとされた、そのような愛なるお方であるのです。
詩編145編7節には、「人々が・・・救いのみ業を喜び歌いますように」とありますが、「救いのみ業」は元々、「義」という言葉です。その神の義の説明として次の8節を読むことができますが、「主は・・・慈しみに満ちておられます」とあり、「慈しみ」すなわち「愛」に満ちておられるのが、神の義の中身だということができます。
私どもは、人間的に正しさを追求するのではなくて、神の聖霊の助けによって、主の御言葉によって正しく生きようとつとめていくのです。神の義にならって、私どもが抱くその正しさの中心に神の愛が宿っているか、いつも問い直す必要があるのです。
ある神学者は、キリスト教はキリストです、と言いましたが、キリストの福音を神の愛によって正しく知るということが必要です。それはすなわち、十字架の死からよみがえり今もなお生きておられる、主イエス・キリストを正しく知ることであります。
この箇所で、主イエス・キリストが一緒におられることが、婚礼の席にたとえられていますが、主イエス・キリストの福音は、喜びのおとずれであります。その喜びは、私どもが生み出す喜びではなくて、神がお与えになる喜びです。外からの新しい言葉であります、神の言葉によって与えられる喜びです。主イエス・キリストが福音そのもの、喜びそのものであります。
しかし、私どもに外からの新しい言葉である、神の言葉が語られるとき、受ける私どもはそのままでいいのでしょうか。自分たちの考えを少しも変えずに、その生き方を振り返らずに受けとめることができるのでしょうか。
主イエスは、この箇所で新しい布ぎれは強くてしっかりしているので、それを古くて弱った布につぎあてたりしない、とたとえておられます。そのことが実に愚かな行為だということが、つぎあてを知らない世代に通じるかと思ってしまいます。いずれにしても、自分の都合に合わせて、主イエスを当てはめようとしても、それは無理だということです。
また主イエスは「新しいぶどう酒は、新しい革袋にいれるものだ。」と語られています。新しいぶどう酒というのは、発酵がまだ進んでいるので、古い革袋に入れると弱くて裂けてしまう、そのことをたとえて言われているのです。
新しいぶどう酒のたとえをもって、主イエスは何を語っておられるのでしょうか。明らかに、私どもに問いかけておられる。器とも言うべき自分自身を顧みることなしに、ただ自分の都合のいいように神からのものを受け取ろうとしても、それは無理だということです。新しい革袋とされる願いをもって来ているのかと、主なる神は問いかけておられる。新しいぶどう酒とは、イエス・キリストです。私たちの救い主、主イエス・キリストです。
イエス・キリストというのは、イエスがキリスト、すなわち救い主という意味です。もっとも短い信仰の告白でもあるのです。主イエスは、私たちに代わって十字架の上で神に裁かれ、罪の赦しをお与えくださる救い主です。主イエスの主、というのは神のことです。自分がお仕えすべき方、主(あるじ)という意味を込めて、主イエスとよんでいます。ですから主イエス・キリストとお呼びすること自体が、信仰の告白になってるのです。しかし、イエスがキリスト(救い主)であるという信仰は、私どもの内側から生まれるものではありません。
もともと、私ども自身の力では、イエスがキリストであるとはわからないのです。神の霊、聖霊の助けなしには、イエス様を信じることはできない。神の子イエスキリストの福音を信じることができないのであります。イザヤ書の言葉を思い起こします。
43:19「見よ、新しいことをわたしは行う。
今やそれは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。」
この言葉と、今日の箇所が結びつく思いがしました。それは、神が告げておられる「新しいこと」というのは、主イエス・キリストにおいて成就しているということです。
さて、キリスト者は、洗礼を受けてキリスト者とされたなら、それはある意味で新しい革袋とされたということです。しかし洗礼を受けて新しい革袋とされたことは、もはや何の心配もない、完全な新しい革袋とされたのでしょうか。もしそうだとするなら、もはや悔い改めることも必要のない、完全な者となったということになります。しかし、それは聖書が告げる福音ではない。マルコによる福音書が語る、神の子イエス・キリストの福音ではないのです。 私どもは、新しくされた者であり、新しくされ続けるべき者でもあります。絶えず、神の赦しのもとに悔い改め、神の恵みによって新しい革袋とされ続ける者です。ルターが語った、キリスト者は「赦された罪人」に過ぎないという言葉が、真実をよく伝えています。
「赦された罪人」と言っても、うつむいて歩くような生活ではありません。文字通り、赦されている、神に受け入れられ、神に喜ばれている喜びに生きる生活です。この箇所では、主イエスは自らを花婿にたとえて、主イエスと共に歩む生活を婚礼の席にたとえておられます。ですから、断食する必要はない、と言われるのです。花婿がいるのにその必要がない。喜びの中に生かされているのであるから、もはやその必要がないのです。
別ないい方をしますと、神の赦しを得るために、断食する必要はないということです。神からの良きものを、救いを勝ち取るためにそれをする必要はない。なぜなら神の赦しはは、主イエス・キリストが、恵みとして与えてくださるからです。
主イエスは神の愛の言葉として語りかけておられます。あなたは古い人だ、と裁くためではないのです。新しいぶどう酒と言うべき主イエスが、新しい革袋をも与えてくださる。私どもは主イエスの恵みにより、新しい革袋と、新しい器とされ続けるのであります。
私どもが新しい器とされるために、主イエスはその命を捨てることを覚悟して、新しい器となるようにと、語っておられるのです。「花婿が奪い取られるとき」とあるのは、明らかに主イエスの十字架が語られているのです。
十字架の死から復活された主イエスは、完全な新しい人であります。まことの神にして、まことの人であります。その主イエスに接ぎ木されるようにして、私どもが信仰を与えられて生きるとき、主イエスの恵みにより、新しい革袋と、新しい人とされ続けるのであります。
私どもは、神の赦しのもとで生きるよう招かれています。
新しい器となり続ける喜びを主なる神から与えられて生きることができるのです。
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