【聖霊降臨節第4主日】
礼拝説教「霊的な家に造り上げられるように」
岩田 昌路 牧師(日本基督教団狛江教会・教区副議長)
<聖書>
ペトロの手紙一2:1-10
<讃美歌>
(21)26,97,400,512,65-1,29
本日は、白鷺教会につらなる敬愛する皆さまと主日礼拝を共に捧げ、御言葉の恵みに共にあずかることがゆるされましたことを、主なる神様に心から感謝いたします。この主日礼拝において、4月に主任担任教師として着任された願念望牧師の牧師就任式を執り行います。本日、主日礼拝の説教者として、牧師就任式の司式者としてご用にあたらせて頂けることを、私は光栄に思い心から感謝しております。白鷺教会のさらなる伝道と教会形成のわざが、主の祝福のもとにおかれ、主の栄光を現わすことができますように心からお祈りしてやみません。
さて、新約聖書のペトロの手紙一2章1-10節の御言葉が示されました。イエス・キリストの使徒ペトロ。彼はガリラヤの漁師でありました時、主イエスに「わたしに従って来なさい」と呼ばれて、主イエスの弟子となり、やがて初代教会の伝道者として生涯を捧げて、最期は殉教したと言われる信仰者です。この手紙はそのペトロの名による手紙です。そして、今日示された箇所にこの手紙のクライマックス(頂点)があると言われます。ここには、あのペトロが息をのむようにして見つめている壮大なものが見えてくるのです。
願念望牧師とは、これまで東京の渋谷、九州の大分、西東京の三つの地域において、近隣の教会で共に歩んできました。主の不思議な導きです。大分県では、願念牧師は由布院教会、私は別府不老町教会に仕えており大分地区の奉仕に共に当たりました。別府も由布院の有名な温泉地ですのでよく二人で温泉に浸かりました。由布院では美しい由布岳を見上げることができましたし、私のおりました別府の町も海と山に囲まれた町でした。いつも雄大な景色を見ることができました。私の妻はその自然豊かな別府の生まれ育ちで、東京の生活はしばらく慣れませんでしたが、こちらに来てから富士山を見る時はさすがに感動していました。やはり日本一ね、と言います。私の父は12年程前にガンを煩い、最期の3か月を牧師館に引き取り牧師館で看取りました。最期の遠出は富士山でした。父を車に乗せて富士山を目の前で眺めることのできる場所に連れていき、しばらく黙って見つめたことを思い起こします。皆さんも、山であれ、海であれ、空であれ、雄大なものを見つめる素晴らしさを経験なさっておられると思います。
さて、あのペトロが見つめているものは、この世に見つめるどんな美しいものよりも壮大なものです。それはある建物です。しかし、それは目に見える建物ではなく、目に見えない霊的な家です。彼はキリスト者たちの群れの中に霊的な家を見ています。ペトロは「あなたがたは、主が恵み深い方であることを味わいました」という言葉のあと、「主のもとに来なさい」(4節)、「生きた石として用られ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(5節)「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえをイエス・キリストを通して献げなさい」(5節)ということを語っています。これらの文章にある動詞は原文では命令形と読めますが、すでに起こっていることとして読むこともできます。ということは、「あなたがたはもうすでに主のもとに来ている。」「あなたがたはもうすでに生きた石とされ、霊的な家に造り上げられている。」「あなたがたはすでに聖なる祭司として霊的ないけにえを主イエス・キリストにあって献げている。」ということになります。すなわち、あなたがたにおいて神の救いはすでに始まっている、ということです。ペトロは各地に離散する信仰の仲間たちの中にもうすでに形づくられている霊的な家を見つめています。そして、それを見つめる驚き、喜び、幸いな思いを伝えているわけです。
私たちは今、時代を超えてペトロの言葉を聴いています。白鷺教会の皆さまもすでに主が恵み深い方であることを味わっています。本物の恵みの味、真実な救いの恵みの味を知っています。本物の味を知っている者は偽物の味を見分けられます。いつでも主を見つめる喜びに生きることができる。しかし、それだけではありません。神に救われた自分の霊的な姿、神の子とされている自分、仲間たちの霊的な姿、そして、教会の霊的な姿を見つめる喜びを知っているのです。私たちは今、礼拝を捧げています。ここに目に見える礼拝共同体があります。歴史を生きる目に見える教会は、私たち自身が担い手である以上、罪と無関係ではあらず、傷つき倒れ、混乱することもあります。しかし、目に見える教会の中に目に見えない霊的な家が建てられている。聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず。その信ずべき教会、聖徒の交わりがここにあります。ペトロはそれを見つめているのです。私たちも富士山の雄大な景色を見つめることよりもさらに雄大なものをこの礼拝から見つめているのです。そして、この箇所から心に刻むべきことがあります。それは、主が恵み深い方であることを味わうことと霊的な家に生きた石として用いられることを知ることはひとつのことだということです。言い換えれば、キリストを信じることと教会を信ずることはひとつのこと、キリストに仕えることと教会に仕えることはひとつのことなのです。
ところで、この聖書の箇所のひとつのキーワードは、明らかに石であります。これは第一には、主イエス・キリストを表わす言葉です。ある研究者によれば、キリストを表わす言葉は、聖書の中に96も出てくるそうです。世の光、真理、羊飼い、ぶどうの木・・・、いろいろな言葉を思い浮かべることができます。その中で石というのは異色なものです。しかし、これを語っているのは、ケファ、岩と呼ばれたペトロです。ペトロが旧約聖書に記される石という言葉を用いて主イエス・キリストを語ったことは、実に相応しいことでした。キリストは捨てられた石と呼ばれています。私たちは、この言葉からあのゴルゴタの十字架の出来事をすぐに想起いたします。この捨てられた石が隅の親石となる。十字架に死なれ、死の墓から復活させられた主イエス・キリストを土台にして家が建てられます。復活の主を頭とする教会が形成されるのです。その時に、さらなる石が積み上げられていきます。それもまた生きた石です。その生きた石とは私たちのことです。キリストという隅の親石にしっかりと結び合わせられ、キリストとひとつにされて霊の家を造りあげる。そこに、救われた私たちの姿がはっきりと見えてくるのです。
ジュネーブの宗教改革者ジャン・カルヴァンは、宗教改革の運動の推進力となった『キリスト教綱要』という書物を著し生涯改訂を重ねました。その書物の本編、第1章のはじめに、カルヴァンはどんなことを語っているか。彼は「神を知る知識と我々自身を知る知識は結びあった事柄である」ということを説いています。これはカルヴァンの神学の結晶とも言うべき言葉です。キリストを通して神を知ること、そのことが、私たち自身を真実に知ることに通じているというのです。私たちは自分自身を見つめるだけでは本当の自分を知ることにはならない。神を知ることにおいて、はじめて自分を知ることができる、というのです。それはまさにここでペトロが語っている語り方をきちんと言い当てるものです。
私たちは一体誰か。私たちはキリスト者です。私たちは洗礼の恵みにあずかり、新たに生まれさせられ、新しい存在とされました。洗礼を受けても何も変わらないと思う方があるかもしれません。確かに洗礼を受けてキリスト者になっても、私たちはなおも罪を犯します。愚かで弱く罪深い自分をひっさげて生きることは同じです。この地上で限りある命に生きていることもかわらない。しかし、私たちが新しい存在となるとは、目に見えない事実です。霊的な事実です。私たちの信仰は見えない事実を信じています。目に見えない神ご自身を信じることとともに、自分自身についても新たにされた自分、神の子とされた目に見えない事実を信じることへと招かれているのです。
私たちが生きた石として、霊的な家に造り上げられているという壮大な事実を、使徒ペトロは「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」(9節)であると言い表しました。暗闇の中から驚くべき光の中へ。主イエス・キリストの福音は、私たちにその一大転換をもたらします。世には私たち人間を覆い尽くす暗闇が厳然としてあります。罪の力、死の力、悪しき力、あらゆる諸霊の力による暗闇です。人間の内にも外にもある滅びへと引き込む暗闇です。しかし、神の独り子が世に与えられたことによって、「光は暗闇の中に輝いている」(ヨハネによる福音書1章5節)のです。私たちは暗闇の中にたたずむものではない、驚くべき光の中に生きるものです。主イエスは人間を覆い尽くす暗闇を打ち破られました。捨てられた石が隅の親石となる。十字架から復活への道筋です。ペトロは、イザヤ書28章の言葉を引用しつつ、選ばれた尊いかなめ石を信じるものは、失望することがないのだと語ります。もとのイザヤ書では、信じるものは慌てることがないと書かれています。ペトロは、わざわざ言い換えているのです。主イエスを信じるものは、望みを失うことはないのだと。ペトロが語りだす「驚くべき光」とは、罪と死に対する勝利の輝きです。私たちは今この驚くべき光の中に生かされているお互いを見つめることができるのです。
ペトロは実に印象的な言葉で教会という共同体を表します。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」(9節)どれも旧約聖書の宝を受け継ぐ重要な言葉です。その中でも、ひときわ大きな意味を持ち、私たちの心をとらえるのは「王の系統を引く祭司」という言葉です。5節にも「聖なる祭司」とありました。ペトロの思いが込められている言葉です。祭司の務めは神と人との間を執り成すことです。旧約の時代には、祭司が立てられ、動物の血を捧げ、罪の贖いの業が繰り返し行われました。私たちの罪の赦しには犠牲が必要であり祭司はそのわざを行ったのです。その祭司という言葉に「王の系統を引く」という言葉が加えられます。王とは統治者です。旧約の時代には祭司も王も神に選ばれた特別な人々でした。しかし、新約の光において私たちは真の祭司、真の王に出会います。すべての王の王、すべての主の主、キング オブ キングス、ロード オブ ローズ。神の子イエス・キリストです。しかし、その上でペトロは「あなたがたは王の系統を引く祭司である」(9節)と語りだすのです。特定の人が祭司・王として召されるのではありません。あなたがたとは信仰者すべてのことです。教会は祭司の王国、教会に集う一人一人が祭司の務めに生きるのです。プロテスタント教会の伝統のひとつ「万人祭司」の教理の根拠の一つにこの聖句を上げることができます。さらに、洗礼を受けるとは天の国の王子、王女になることだと言った人がおります。私たちは天の国のプリンスであり、プリンセスです。お互いの顔を見ながらそれを喜び合うことができるのです。これも目に見えない恵みの事実です。「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみをうけなかったが、今は憐れみをうけている」(10節)。その神の憐れみはすべての人々に向けられています。洗礼への道はすべての人に開かれています。誰もが天の国のプリンス、プリンセスとされて生きることに招かれているのです。
このたび、白鷺教会に新たな牧師とその家族が遣わされ、驚くべき光の中へ招き入れる業に仕えるために教会員の皆様が新たな決意をもって歩み始めておられます。牧師として、信徒として、それぞれに尊い神の召しがあります。誰もが生ける石として神に必要とされているのです。何と光栄なことでしょうか。驚くべき光の中を共に歩み続けたいと願います。お祈りをいたします。
慈愛の神、天の父なる神よ、私たちもあなたの憐れみによって驚くべき光の中へと招き入れられ、霊的な家が造り上げられるために生ける石としてされた者たちであります。あなたは無に等しい私たちを王の系統を引く祭司としてお用い下さいます。何と光栄なことでしょうか。どうか、尊い務めのために召されたお互いであることを深く自覚し、喜びと感謝をもって、あなたに仕え、教会に仕え、隣人に仕えてゆくことができますように。また、あなたご自身が霊的な家たる教会を用いて力ある業を行って下さることを信じます。あなたが白鷺教会の存在と働きを通して、多くの人々を救いへと導いて下さい。特に願念望牧師のお働きとご家族の歩みがあなたに豊かに支えられますようにお願いいたします。白鷺教会のさらなる歩みをあなたの慈愛のみ手に委ね、この感謝と願いとを我らの主イエス・キリストのみ名によって御前にお捧げ致します。アーメン。
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