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shirasagichurch

2021年5月9日(日)聖日礼拝(zoom)

【復活節第6主日】


礼拝説教「解き放ってくださる」

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書1:21-28


<讃美歌>

(21)25,17,132,321,29


 「一行はカファルナウムに着いた」(21)とあります。一行とは、直前の箇所に記されています、シモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネ、そして主イエスです。主イエスから彼らは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と召し出されてお従いしました。シモンはやがて主イエスからペトロと呼ばれるようになりますが、彼らはガリラヤ湖で漁をする漁師でした。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、父と雇い人をおいて主イエスに従ったので、雇い人がいる比較的裕福な漁師家庭だったかもしれません。しかし当時、漁師というのは、社会的には決して中心にはなれない存在でした。救い主が来たとして、その最初の弟子に漁師を選ぶというのは、人々には考えられないことだったのです。ですから主イエスが、ペトロ達漁師を最初に選ばれてご自身の弟子とされたことは、それ自体が福音、よきおとずれであります。

 人間をとる漁師というのは、彼らが漁師だったので主イエスがわかりやすくたとえて言われたのだと思われるかもしれません。しかし、「人間をとる漁師」という言葉は、旧約聖書に元々出てくる言葉です。代表的な箇所をお読みします。エレミヤ書16章16節「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。」ですから人間をとる漁師というのは、言い換えれば預言者であり、神の眼差しに導かれる者です。ペトロ達は、預言者として、神の眼差しを教えられていく。そのために、まだ右も左も分からないペトロ達にとって、主イエスの後についていって、その言葉と業とをしっかりと聴いたり見たりすることがどうしても必要でした。主イエスをまねることを彼らは、学んだ。生涯それを学び続けたのです。習字をならうときに、先生が上から覆い被さるようにして、手を取って教えてもらった経験をお持ちの方もあるでしょう。主イエスは、そのように私たちを手取り足取り、導いてくださるのです。

 長老会では、さまざまな役割分担を再検討していますが、6月から牧師が説教看板を書くことになりました。どこまで続くかと思いますが、高校の習字の授業以来です。主が私どもの手を取るようにして導いてくださることを伝える礼拝に、心を込めて看板を通してもお誘いしようと思っています。

 カファルナウムというのはガリラヤ湖の近くで、ペトロの家族が住む家があったところです。その会堂にペトロたちの家族も来ていたかもしれない。会堂というのは、ユダヤ人達が礼拝を守っていた場所です。今日で言う礼拝堂にあたりますが、主イエスは、そこへと入って行かれて教えられた。決して、旧約時代からの会堂を否定することなく、そこへと入って行かれた。そして教えられ、それを御心に適うように、御言葉により改革されて行かれたのです。そのことはとても大切です。

 主イエスが会堂に入って教えられたとき、人々は非常に驚きました。それは、今までの教えとは全く違っていたからです。言葉に力があった。権威をもって教えておられたからです。聴いている者たちが、神の言葉を語る者としての権威を肌身に感じて聴いたということです。それは、預言者が神の代弁者として、神の言葉を語っていたときに人々が感じた神の権威です。いやそれ以上に、人々はその時どう言ったらいいか分からなかったでしょうが、それは、マルコ福音書が告げる、神の独り子の権威です。

 会堂にいた人々の中に、汚れた霊にとりつかれた者がいました。彼もまた、主イエスの権威を感じ取っていた。彼は、主イエスを「神の聖者」と呼んでいます。「神の聖者」とは、「神の代弁者」と言うことができる言葉です。

 主イエスは、悪しき者による働きを滅ぼすために来られました。それは、私どもを罪の縄目から解き放って、神のものとするということです。人が本来あるべき姿に戻すために来られたのです。主イエスは、私どもをあるべき姿に生かしてくださるのです。

 主イエスは、悪霊がその人を虜にするのをそれ以上お許しにならず、お叱りになります。「黙れ。この人から出て行け。」(25)結果、主イエスの言葉の通りに、汚れた霊は、その人から出ていきます。彼は、今まで自分を苦しめていたものから解かれるのです。主イエスの御言葉に伴う神の国の実現がそこにありました。それまでは、悪霊が捕らえていたその人を、神が恵みをもって捕らえてくださったということです。

 人々は、さらに驚いて言います。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。」(27)人々は、揺さぶられます。「これはいったいどういうことなのだ。」と自分たちの考えを改めずにはおれない、神の言葉の現実に出会うのです。その命じられたとおりに、語られた御言葉が現実となる、主イエスの権威に彼らはその存在を揺さぶられていったのです。その中に、弟子達もいました。そして、私どももいるのです。

 礼拝において、神の言葉の説き明かしを共に聴く時、かえって疑問がわいて来るというとはないでしょうか。「これはいったいどういうことなのだ。」とうことです。しかし、健全に説き明かされ、神の聖霊のお働きによってふさわしく聴いていくときに、それだからこそ、神への問いかけが生まれるということがあるのです。自分たちの考えが砕かれていくからです。

 疑問がわいてくるということを言いましたが、この箇所にあるような悪霊の話は、自分たちとは関係のない話としてとられる危険があると思います。確かにここにあるような、顕著な悪霊の姿を目の当たりにすることはないかもしれない。しかし、私どもを取り巻いている世界の中で、時代の霊とも言うべき、悪しきものの働きに私たちは直面しているのではないでしょうか。そのような霊的な闘いを抜きにして、教会の歩みは語れない。主イエスの恵みの支配、神の国はまさに、この時代に置かれている私どもを、悪しきものの働きから解き放ち、守るものであります。心を捕らえているものから、主イエスは解き放ってくださるのです。


 あるカトリック教会の神父のお話を思い出しました。アルフォンス・デーケン神父という、イエズス会の神父がかつて上智大学で教えておられました。2020年9月に88歳で天に召されておられます。

 しばらく前になりますが、ある日衛星放送を見ていて、デーケン神父の歩みを特集した番組を再放送していたのです。デーケン神父はドイツの小さな村で生まれ育った。幼い頃、昨日まで仲良く遊び言葉を交わしていた親しい友人とその一家が、第2次世界大戦中、焼け死んでしまう。その焼け跡の黒こげになった遺体を見て、デーケン少年は言葉を失い、深い悲しみを経験するのです。ふさぎ込むようになって元気を失った彼を支えたのは、彼が通う教会の礼拝であったというのです。小学校へ行く前に、彼は朝の礼拝に通った。神父の説教によって、神の言葉の語りかけによって彼は、慰めを得ていったというのです。

 やがて生と死の問題について深く考え取り組むようになったデーケン神父は、ホスピスについて深くたずさわられるようになります。ドイツの例をモデルとして、日本に紹介してくださった。その番組の中で、興味深いこんな言葉を言われた。「喜びを分かち合うと二倍になります。苦しみを分かち合うと半分になります。」おそらくデーケン神父は聖書の御言葉をもとにして話されたと思います。それはとても有名なローマ人への手紙12章12節の御言葉です。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」


 主イエスによって解き放っていただいたこの人が、その後どのようになったかは書いてありません。しかし、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」とある恵みにこの人が生きていったと信じることができます。また、私どももそのように、自分を不必要にとらえているものから解かれて神の恵みに捕らえられていく、そのような主イエスの救いに生きることができるのです。

 汚れた霊にとりつかれていた人は、主イエスに解き放たれ、本来のその人自身として生きるようになった。罪との戦いもあったでしょうが、主イエスによって勝利を与えられたはずです。主イエスは私どもにも、罪との闘いに絶えず勝利を与えてくださる。自分では追い出せない思いを追い出してくださる。自分では勝てない罪との闘いに勝利をもたらしてくださる。こんなことは語りたくないと思いながら語ってしまう私どもに、語る言葉を授けてくださる。主イエスの救いによってすべてを赦して、神の御心へと近づけてくださるのです。

 主イエスはそのように、私どもを悪しき力の働きから解き放って、神の霊に生かしてくださる救い主です。その主イエスの恵みによって、本当の意味で私どもは人として生きることができる。喜びも苦しみも共に分かち合って祈る教会生活のただ中に、主イエスが共にいてくださるのです。心を注ぎだして祈るこの礼拝で、すべてを互いに話すことはできないでしょう。しかし、すべてをご存じである主イエスこそが、苦しみを共に担って軽くし、喜びを共に喜んで、私どもの内に喜びを増し加えてくださるのです。 




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