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2021年5月30日(日)三位一体主日礼拝(zoom)

【聖霊降臨節第2主日】


礼拝説教「あなたの罪は赦される」

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書2:1-12


<讃美歌>

(21)25,451,459,481,65-1,29


 私どもは礼拝を共に献げています。実際には集まることができませんが、ZOOMを通して、またお送りした週報と説教原稿によって心を合わせて礼拝を献げています。与えられています箇所は、主イエスのもとに皆が集まって、礼拝を献げている最中の出来事です。 その礼拝の最中に、ひとりの病の人を、友人たちが必死な思いで主イエスのもとに連れてくるのです。友人たちの思いも、病の人の心も主はすべて知って語りかけ、働きかけておられます。そのお姿は、私どもへの恵みの働きかけ、神の愛の語りかけでもあるのです。

 主は私どもがどのような思いで礼拝を献げているか、すべてご存じであります。私どものことをすべてご存じである主が、この時も導いてくださることを信じて、与えられています箇所に思いを深めていきましょう。


 人々は、主イエスがまたガリラヤ湖の畔の町に戻って来られたことを聞いて、続々と集まってきました。ある家の入り口までびっしりと人で埋め尽くされた。彼らは、決して興味本位に集まったのではないようです。

2節にありますように、主イエスはその家で御言葉を語りかけておられます。

 ここで「御言葉」と訳されている言葉は、元々「その言葉」「あの言葉」と直訳できます。ですから、主イエスがいつも語っておられた「あの言葉」「あの福音」ということです。主イエスは、いつものように、人々に救いの言葉を語っておられた。ここにすでに、キリストの教会の原型のようなものがつくられています。私どもがこのように、主イエスの御言葉を共に聴くために礼拝を献げているのと同じであります。


 静かに、主イエスの話に聞き入っていたときに、思いがけないことが起こります。それは、礼拝の真っ最中の出来事とも言えますが、四人の男性が中風の人を運んできて、天井に穴を空けて、主イエスの前につり降ろしたのです。「中風」と訳されている言葉は元々、直訳すると、「体の麻痺した人」です。意識はしっかりしているが、体のどこかに動かない部分があって寝たきりで、友人たちに運ばれてきたのです。現代で言うと、脳卒中が原因で体の一部が麻痺して動かなくなるような状態を、中風と呼んでいたそうです。


 当時の家は、外にはたいてい屋上に通じる階段がある平屋だったようです。雨があまり降らない地方ですから、屋根の作りも簡単です。私どもが日本の家の屋根に穴を空けるのとはずいぶん違います。しかし、それでも人の家の屋根に穴を空けるのはとんでもないことです。

 弟子たちも、集まっていた人々も、その家の主人も、一人残らず何という強引な失礼極まりないことだと思ったはずです。しかし、ただお一人だけは、全く違う見方をされていた。目の前に起こったことよりも、むしろ、彼らの心の声に、魂の叫びに耳を傾けておられた。なぜ、彼らはここまでしなければならなかったのでしょうか。


 家の中がいっぱいで入れなかったのは事実です。しかし、中風の人ではなく、当時の指導者である、律法の教師が入ってきたら、人々は必死に道を空けたでしょう。実際に律法学者が数人、その家の中心、主イエスの前に座っていたのです。おそらくは主イエスから学びたいというよりも、新しい動きを監視するように座っていたのでしょう。

 中風の人は、いっぱいで入れなかったのは事実ですが、実際の生活でも、人々の交わりの外に置かれていた。神に祝福されていない人、と間違って見なされていた。何か罪を犯したので、その罰を受けていると思い込まれていた。そのような因果応報的な考えは、誤った神様への理解ですが、周りの人々だけではなくて、中風の人自身もそのように考えていたかもしれないのです。


 ですから、体の不自由さ以上の苦しみを負っていた。もしかしたら、そのような周りの冷たい思いにさらされる苦しみの方がつらかったかもしれない。

 主イエスは、よくわかっておられたはずです。ただおひとり、本人以上によくわかっておられたはずです。この中風の人が、これまでどんなに苦しんできたか。その心の叫びをよく知っておられたはずです。

 どうして神は助けてくださらないのか。あの人、この人はどうしてあのような言葉で自分を打ちのめしてきたのか。その苦しみ悩みから逃れたい思いでいっぱいであったかもしれない。自分がこのようにつらい思いをしなければならない理由を探し当てることができない。いわれのない苦しみはほんとうに悩ましいものです。


 しかし、もしこの人が、周りの人々を恨み、いわれのない苦しみが取り去られることだけを願っていたとしたら、そこでこそ、主イエスは、救いの手を差し伸べられた。彼を罪から救おうとされた。すべてをまわりのせいにして、自分もまた、神がご覧になったら赦される必要があることを忘れて生きていることは、罪にとらわれているのです。病に捕らわれているよりも、もっと、救われる必要があります。

 主イエスは、愛をもって語られました。「子よ、あなたの罪は赦される」(5)。

この言葉は「あなたの罪は赦された」(口語訳聖書)と訳すこともできます。「子よ、あなたの罪は赦された」と語りかけられて、彼は驚いたでしょう。しかし、これこそ、最も自分が必要としていた救いではないか。そう気づいて、この言葉こそ本当に待っていた救いだ、と心で叫んだのではないか。彼の人生に、確かな、消えることがない喜びが与えられたはずです。


 先ほど律法学者が数人、主イエスの前に座っていたと言いました。主イエスの語りかけをそばで聞いていた指導者が心の中で非難します。

 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(7)

当時の指導者であった律法学者の非難はある意味で正しいのです。もし主イエスが、主なる神ではなく、人となられたまことの神、救い主でないなら、神を冒涜したことになります。しかし、主イエスが「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのは、罪を赦すことがおできになるお方であるということです。主イエスはそのように語りかけられながら、自らが愛なる神であることを、まことの救い主であることを明らかにしておられるのです。


 大事なことを教えるために、主イエスは、どちらが易しいか、と問いかけておられます。

「中風の人に、『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(9)と問われたのです。どう考えるでしょうか。

 「起きて、床を担いで歩け」と言って、その通りにいやされなかったら信頼を失うわけですから、その方が語るのは難しいと考えるでしょうか。しかし「あなたの罪は赦される」と言うのは、先ほど申しましたように、主なる神のみが語ることができる言葉であるのです。

 主イエスであっても、「子よ、あなたの罪は赦される」という言葉は、ただ口先で語ることはできなかった。「あなたの罪は赦された」とその救いを実現するために、この病の人が受けるべき神の審きを代わりに負って、十字架にご自身の命をおささげになる必要があった。そのことを覚悟して語っておられるのです。ですから「あなたの罪は赦された」という主イエスの御言葉は、聖書の中で、もっとも重い御言葉の一つです。


 さて、この人には、とても幸いなことに、4人の仲間がいました。神によって備えられていたと言えます。主イエスは不思議なことに、その人たちの信仰を見て救いを与えておられる。その人たちというのは、中風の人を含んでいるでしょうが、運んできた四人の信仰を見て、ともとれる言葉です。少なくとも四人の人たちは、自分たちのためではなくて、愛する仲間のために、主イエスのもとに飛び込みました。

 中風の人の叫びや痛みを、自らの痛み、叫びとして、主イエスのもとに行ったのです。どうか、私どもも主の恵みによって、その信仰に倣いたい。


 私どもの信仰生活、教会生活は自分のためにのみ信じていくのではないのです。

 礼拝は主イエスのもとに、主なる神のもとに行くときです。主なる神のもとに行くときに、主は私どもを愛によって動かし、神が思いにかけておられる方たちを思う心に生かしてくださるのです。

 礼拝の時に、主は恵みによって私どもに働きかけ、神の愛に動かしてくださいます。自らのためだけではなくて、心にかけている方のために、家族のために、愛する仲間のために祈り願う私どもとならせてくださるのです。


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