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2021年5月2日(日)聖日礼拝(zoom)

更新日:2021年5月7日

【復活節第5主日】


礼拝説教「イエス様についていく」

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書1:16-20


<讃美歌>

(21)1,113,516



 「わたしについて来なさい」(17)と主イエスが愛をもって語りかけてくださっています。先日長老会で、6月13日の牧師就任式の予定が確認されましたが、「わたしについて来なさい」と主イエスがお命じになってくださったからこそ、ここまで来ることができました。白鷺教会へと遣わされて、無事にふた月目を迎えています。

 「わたしについて来なさい」との主イエスの言葉は、自分がやらなくてはと必要以上に意識してしまうとき、私どもを解き放ってくださるみ言葉です。

 私どもには、ほっと、肩の荷を下ろすことが必要です。主イエスは私どもに、とても慰めに満ちたみ言葉を語りかけてくださるのです。「わたしについて来なさい」と語りかけてくださる主イエスの恵みに、その慰めに共にこの朝、与りたいと願います。

 カール・バルトという有名な神学者は「聖日の礼拝毎に、教会が新しく生まれる。」と語ってます。言うなれば私どもは、礼拝毎に、共に新しくされているのです。新しくされることは、神からの語りかけによって、主なる神によってなされます。主イエスの御言葉によって新しくされるのです。


 与えられています今日の箇所に、主イエスに招かれて弟子となった4人のことが記されています。シモンとシモンの兄弟アンデレ、また、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。この4人の者も、主イエスの語りかけによって新しくされ、変えられていった。「わたしについて来なさい」と語られる主イエスの慰めに満ちた言葉によってついていくことができた。お従いすることができたのです。

 皆さんの中には、この箇所を読んで、「わたしについて来なさい」と主イエスから言われて、すぐに従っていったこの4人はすごい、自分にはそうはできないと、お感じになるかもしれません。もし彼らの潔さにしか注目されないとしたら、それは、マルコが伝える「神の子イエス・キリストの福音」ではなくなってしまいます。彼らが主イエスに従ったことは、彼らの栄光ではなく、神の栄光です。

 主イエスが語られたその言葉によって動かされて、彼らはついていくことができた。従う者とされたのです。そこに恵みの支配があります。神の国があるのです。「神の国は近づいた。」と宣べ伝えられた主イエスの言葉がここに実現しています。神の言葉が現実となって生み出されているのです。私どももまた、主の御言葉によって動かされて、お従いすることができるのです。

 さて主イエスは私どもに、「わたしについて来なさい」、「わたしに従いなさい」、と言われる前に、父なる神に全く従われました。「わたしについて来なさい」、「わたしに従いなさい」という言葉は、まず主イエスがお聴きになった言葉です。まず主イエスがお聴きになって、それを行われた。そして語られたのです。神の御心に完全に従いぬかれた主イエスが、私どもに語りかけておられる。「わたしについて来なさい」


 主イエス・キリストに救われることを、キリストを着ると言い表すことがあります。キリストをその身に着るというのは、主イエス・キリストの為してくださったことを私どもに与えられたものとして、救いの衣として着ていくということです。

 キリストを着るというときに、主イエスの服従によって、主イエスがお従いされたその行いによって私どもは救われているのです。主イエスは、私どもが完全に従い得ない、罪深く弱い者であることを知っておられます。よくよく知った上で、「わたしについて来なさい」と語っておられるのです。16節には、「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。」とあります。この「御覧になった」という言葉は、じっと見られた、その存在を見抜かれるようにしてしっかりと御覧になった、という意味です。主イエスは、私どものすべてを知った上で、なおもすべてを赦し受け入れて、神の愛をもって「わたしについて来なさい」と招いてくださるのです。

 主イエスについていった弟子達は、主イエスの言われることをすべて行えたわけではなかった。むしろ、従い得ないことの連続だったというべきでしょう。しかし、それを知った上で、見抜いた上で、ゆるして、「わたしについて来なさい」とお命じになったのです。


 確かにこの4人はやがて、最初のキリスト教会の中心的な指導者となりました。シモンとあるのはやがてペトロと呼ばれるようになった人です。彼ら4人は、すべて信仰のゆえに殉教の死を神にささげたと伝えられています。伝説ではペトロは主イエスと同じように十字架にかけられることを拒んで、逆さまに張り付けられることを願ったと伝えられています。しかしそのようにして神の恵みによって主イエスの後をついていった彼らも、自らの弱さを露呈していくことがしばしばだったでしょう。いや最後まで、生涯彼らは自らの罪深さ、弱さを教えられ続けた。そして神へと向き直り続けたのであります。彼らの歩みには、絶えず「わたしについて来なさい」という主イエスの言葉がありました。すべてを知った上で語られる主イエスの言葉があったのです。だから生涯、主イエスについて行くことができたのです。


 同様に主イエスは私どもにも、すべてを知った上で、ゆるして、「わたしについて来なさい」と語りかけてくださる。だから、ついていくことができるのです。

 20節に、「イエスの後についていった」とありますが、ある神学者は、この言葉は、背中を見るようにして後をついていくという意味だと語っています。先を歩いて行かれる主イエスの背中を見るようにして、信頼してゆだねてついていけばいい、ということです。

 神へと自然に向き直れない者であり、主イエスの言葉に従い得ない者でありますが、主イエスは愛をもって語り続けてくださる。愛をもって「わたしについて来なさい」と語り続けてくださる主イエスの恵みのもとに身を置くとき、私どもは生きることができる。すべての思いわずらいから解かれて休むことができるのです。


 主イエスに従うことを、私どもが働いたり奉仕することがすべてだと考えているなら、それは間違いです。何もしていないと思い込んでいる高齢の信徒の方が、実は礼拝に集う多くの方々を慰め力づけているのは事実です。主イエスに従うことは、言い換えるなら、主イエスを愛することです。ボンヘッファーは、教会生活の中でこそ、私どもは主イエスを愛することを覚えるのだ、という意味のことを語っています。

 主イエスにまず聴くことが、主イエスを愛することです。そこから、主イエス・キリストに従う歩みも生み出されていくのであります。

 礼拝においてまず主イエスに聴くことなしに行うことは、ただ自分本位に、イエスに従っていると思い込むことに終わってしまうことがあります。自分本位に生きることはたやすいのですが、自分を生かすものがかえって失われ、周りも生かせないことがある。自分本位ではなく、主イエスの招きによって生きるときに、私どもは慰めと休みを与えられる。招かれる私どもは実に罪深く、弱く欠け多いものでありますが、すべてを赦され、弱さの内に助けられて生きることができる。私どものことを、主イエスが心から喜んで受け入れてくださるので、不十分ながら自分を受け入れ、また仲間を受け入れていくことができるのです。

 主イエスは、慰めに満ちた愛をもって、赦しをもって招いてくださる。

 「わたしについて来なさい」(17)

 主イエスには、安心してついて行くことができる。私のような者がついて行くことができるのだから、あなたも一緒に主について行きましょう、と宣べ伝えることができるのです。そして共に主イエスについて行く歩みの道すがら、私どもは主の愛に動かされて互いに出会い続けるのです。



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