top of page

2021年5月23日(日)ペンテコステ礼拝(zoom)

【聖霊降臨節第1主日】


礼拝説教「深く憐れんでくださる」

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書1:35-45


<讃美歌>

(21)25,355,343,346,65-1,29


 「ハンセン病」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。古くは「らい病」と呼ばれて恐ろしい伝染病と思い込まれた時代がありました。今私どもはウイルスによる感染症で厳しい状況を生きていますが、ハンセン病の病原菌はウィルスではなく、ばい菌の一種だそうで、風邪よりもうつりにくい、およそ伝染病とはほど遠い病気なのです。

 青森松原教会に赴任していたときに、2004年4月から7年間、近くの元ハンセン病の方たちの療養所にあるキリスト教会、松丘聖生会の牧会も担当していました。そこで学んだことですが、青森出身のキリスト者だった石舘守三博士は、東京大学薬学部長もつとめられたようですが、ハンセン病が伝染病ではなく隔離政策は間違っていると訴え続けました。その訴えが受け入れられて、ハンセン病予防法(旧、らい予防法)が廃止されたのは1996年のことで、ある意味最近のことです。石舘兄はその年に天に召されています。

 コロナがもう少し落ち着いたらおたずねしたいのですが、いまでもその教会を支えているK姉がおられます。そのお連れ合いが、3年ほど前に天に召されたのですが、かつてこんなことを言われました。それは、親しくなって何気なくどこ出身ですか、とたずねたときのことです。顔色が変わってつらそうになさり、数十秒言葉が出てこなくなられました。本当に申し訳ない思いでいますと、「先生・・」と語り始められました。青森の沿岸部の町からちょっと出かけようと連れて来られたけれど、来てみて分かったのはもう故郷には戻ることができないこと、自分の兄弟がその子どもたちに、私という兄弟がいてハンセン病で隔離されていることをひた隠しにしたので、いまではその兄弟たちもみんな亡くなって、私の存在を知っている人が故郷には誰もいなくなりましたと。さらに話されたのですが、「願念先生、いまでは感謝しているんです。この病気になったから、ここに連れて来られてイエス様にお会いすることができて救われました。ですから、いまでは感謝しているんです。」全く返す言葉がないほどに心を打たれました。

 「いまでは感謝しているんです」という信仰の告白は、神様が与えてくださったものだとK兄は心から信じていました。教会を生み出してくださった、主なる神の聖霊のお働きによる恵みの告白なのです。ペンテコステは聖霊降臨日と言って、教会の誕生日と言われます。目に見えない主なる神が、すなわち主イエスが霊として共に生きてくださっているということです。「いまでは感謝しているんです」という告白を、いまでも主は生み出してくださっているのです。


 与えられています箇所は、40節に「さて、重い皮膚病を患っている人が」と記しています。みなさんの中には、「らい病」という言葉で書かれている聖書をお持ちの方があるかもしれません。マルコ福音書で、重い皮膚病と訳されている言葉は、新共同訳聖書が出版されたあと、ハンセン病「らい病」とは言えないという指摘もあって、「重い皮膚病」と訳し直されています。

 しかし、おかれている状況はよく似ています。当時の重い皮膚病を患っていた人々は、汚れた者として村の外に住まわせられていました。40節で、主イエスが重い皮膚病の人たちに出会われているのは村里の外です。人々が決して行かないところへ主イエスは出向かれました。

 その人は、主イエスのところに来て、ひざまずいて、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と願いました。その病は、汚れたものと見られていましたから、病気が治るということは、清くされると考えられていた。ですから、「わたしを清くすることがおできになります。」ということは、「わたしを癒すことがおできになります。」という意味です。


 先日、ある学びで、「よみ(陰府)にくだり」という使徒信条の言葉にふれて解説しました。よみ(陰府)というのは、神がもはやおられないところ、と考えられていました。十字架の死の後に、よみ(陰府)と言うべきところにも、主イエスは行かれたことを聖書は記していますが、(ペトロ一3:19)この箇所で、主イエスが行かれた村の外にあるところは、当時の人々が、まるでよみ(陰府)のように扱っていたところではないかと思います。


 人の営みの外に置かれ、よみ(陰府)のように扱われていたそのところで、「御心ならば」と祈り願う人に対して、主イエスが憐れみ深く応えておられるのです。主イエスは、「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、清くなれ』」(41)と癒されました。主イエスがなさったことを、ご一緒に思い巡らしたい。

 「深く憐れむ」というのは、元々の言葉では内臓が引き裂かれるような思いをもって、という意味で、とても強い意味合いの言葉です。主イエスはこの人の病を、自らの病として接していかれたのです。

 主イエスは、祈り願うその人に触れられました。人々が村の外に置き去りにして近づかない。握手することなどあり得ない。そのようなときに、主イエスはその人に触れられた。彼は、忘れていた手のぬくもりを感じたはずであります。

 「よろしい、清くなれ。」と主イエスは語りかけられました。

 「よろしい」という言葉を、ある神学者は「わたしの心通り」と訳しました。それは「神の御心である」ということです。

 「わたしの心通り、神の御心だ、清くなれ」と言われたのです。その御言葉は現実となって彼はいやされました。


 しかし主イエスは「すぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。」(43、44)のです。「厳しく注意して」というのを、ある英語の訳は「激しい憤りをもって」と訳しています。「激しい憤りをもってその人を立ち去らせようとして」と理解することもできる。主イエスは、聖なる憤りをもって、この人をこのように見捨てた、人の罪の現実に対してお怒りになったのではないか。「祭司に見せるように」とは、当時、祭司が癒されたことを確認する役目でしたから(レビ記13-14章)そのように、主イエスは命じられたのです。この人は、自分の家族のもとに帰ることができました。


 この人は、主イエスのもとに行き、「御心ならば」と願いました。私どもも「御心ならば」と祈りましょう。「御心」は、いつも私どもが癒されることでしょう。私も、そのような御心を信じて、いつも癒されるようにと祈っています。

 しかし、「御心ならば」と祈り求めて、癒されないときには、どう理解したらいいのでしょうか。神は、病の中にとどめおくことをその御心とされたということでしょうか。私どもは、短絡的に、「御心」を定めることは控えるべきであります。思い通りにならないときにも、神にゆだねて信じていくことが必要です。思い通りにならないことへのひとつの光がこの箇所に与えられています。

 主イエスが、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と言われたことがそうです。なぜ、話さないように言われたのか。それは、主イエスは、自らがどんな病をもいやしてくれる者として宣べ伝えられることを拒まれたということです。主イエスは、病がどんなに人を苦しめ、また、ときに人との関係を引き離すことがあるかをよく知っておられて、心を深く痛めていかれた。内蔵が引き裂かれるような痛みをおぼえられたのです。しかし主イエスは、ひたすら病をいやす者としてとどまることを拒まれた。救い主の歩みを歩みぬかれたということです。

 マルコ福音書が伝えることは、病からのいやしそのものの中に、永遠の救いはないということです。


 主イエスもまた、あるとき、御自身のことで「御心ならば」と祈られました。

 ゲツセマネの園で、十字架を目前に控えて祈られました。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)

 その時の主イエスの祈りは、「御心ならば」「この杯をわたしから取りのけてください。」という祈りでした。しかし、取りのけられることは聞き届けられませんでした。苦い杯を主イエスは飲みほしていかれた。それは、私どものためです。私どもが罪赦されるため、私どもの病を、ご自身の痛みとするために、主イエスは、父なる神の御心に自らをゆだねられたのです。イザヤ書53章6節にある「わたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」ことの救いが成就したのです。


 父なる神は、私どもの罪をすべて、神の御子イエス・キリストに負わせられたのであります。この箇所の、「御心ならば」と祈り願っていやされたこの人が、罪の赦しを与えられて神の救いに生きることができるためにも、主イエスは十字架へと進み行かれたのであります。そして、よみにまでくだり、死からよみがえられて今も生きて働いておられる。そして、私どものために執り成し祈っておられるのです。

 この箇所には、ひとりの人のいやしが記されています。しかし、マルコは告げているのです。いやしがたい罪から救われることに勝るいやしはないのです。たとえすべてが思い通りにいかなくても、「いまでは感謝しているんです」と告白することができるよう、主は導いてくださるのです。



 
 
 

コメント


© 2023 by COMMUNITY CHURCH. Proudly created with Wix.com

bottom of page