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2021年3月7日(日)聖日礼拝(zoom)

【受難節第3主日】

礼拝説教「つながり生きる」

野田 沢 牧師 (学生キリスト教友愛会(SCF)主事)

<聖書>

ヨハネによる福音書15:1-10


<讃美歌>

(21)51,449,481



 レントの時です。十字架によって救いに導かれている者として喜びつつ、主の痛みにもつながる勇気を持ちましょう。


 本日は、人によっては幼少期から聞いていた聖書の御言葉です。皆さんも何度も聞いてきた、この「ぶどうの木のたとえ」。これが、十字架の前夜、最後の晩餐の席上であったことが、また重要です。しかしどうでしょうか。私もかつてはこの箇所は恐ろしく、目を背けた経験があります。


 「15:05わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 15:06わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」


 この聖句を読み、私たちは不安になります。「私はよい実をつけることができるだろうか?」と。……その想いをもつのは自然でしょう。むしろ、我々の中で誰が「自分はよい実をつけている。よい実をつける自信がある。」と言えるか?

 だからこそ、私たちはこのように聖書に向き合い、礼拝を守り、一週間の自分を見返しつつ立ち返りの機会を持つのでしょう。


 「私は主なる神の目に、よい実をつけていない。そのようなよい実をつける自信もない。」……それでよいのでしょう。

 そして我々は、まことにそのような者であることをよくよく自覚しましょう。そのことは間違いない事実です。


では、そのような「実をつけない枝」である私たちはどうなるのか?

……父である神によって、「幹から切り取られ、集められて焼かれてしまう。」と聖書は言います。いえ、主イエスがそう言われるのです。


 これは、本当に恐ろしいことです。自分が、イエスさまと神さまから離されてしまう。自分が全くの虚無の中に置かれること。主なる神の光も希望も、主イエスの慈しみも愛も、聖霊のあたたかな息吹からも断絶された今を生き、未来を生きる事。まさに、主イエスが十字架の後3日間過ごされた、あの「黄泉に下り」。その黄泉の中を生きるということ。

……残念ながら、私たちはそれに値する生き方しかしてこなかった。そう言えるでしょう。

私たちだけではありません。「この世界。世のすべてが神さまに従ってこなかった歴史」があります。それが描かれているのが、私たちに与えられているこの聖書です。

 神の言葉に聞き従わなかった歴史。神から離れることばかり、自らを頼ることばかりに想いを砕いてきた人間の歴史があります。


 人間は自立を望む。神からの自立を。そのどうしようもない私たちの人間性を最も良くあらわしているのが、「アダムとエバ」。神からの自立を望む人間の姿です。神から離れた方が、もっと豊かでもっと強くなれるのだと。自分たちの力で、今もこれからも「生きるそのすべてを定めてゆきたい」のだと。

 神の御心ではなく自分たちの善悪の判断。神の御心ではなく自分たちの価値判断。神の御心ではなく自分たちの裁き。自分たちの、自分たちの……


 その先には何があるでしょうか。人間同士の争いや痛み。嘘や妬み。弱い人々に目を向けず、力の追求と力による支配。

 私たちの人類の歴史が、イスラエルの歴史がまさにそうであった。神からの自立。そして堕落。人間同士の争いと力の支配。生きる希望を失い迷う。その中からの預言者による立ち返り。主の守りの安寧の中で、また神を忘れ自立を求めてゆく。……私たち人類はその罪の繰り返しであった。

 その罪の繰り返しの歴史の中で、その極みにあるのが、私たち一人一人が形作るこの今、現代ではないでしょうか。


 10年前、私たちは東日本大震災を体験し、痛み、共感し、一つとなった。……そんな気がした。しかしその後は、あれほど多用した「絆」などという言葉は忘れ、フクシマやその中で蹴散らされた生活など、思い出されることもありません。また、「経済性」の中で、あの時に気付かされた様々なひずみにも今はもう目を向けずに歩んでいます。

 そして新型コロナウィルイスの出来事。人と人との「絆」ではなく、「ディスタンス」が当然のこととなっています。本来それは、物理的な距離感だけであるはずなのですが、もはや人と人との人格や尊厳の「絆」が意識されなくなってきています。

 私たち人間は、いや私たちキリスト者は、他者を愛さず神だけを愛すること、人に繋がらずに神だけに繋がることができるか?というと、それはできません。

 主イエスは、新約聖書は、また旧約聖書も創世記の最初から、神と人とを愛することを同義としています。

 そのような中で、私たちは神からの自立を望み、他者と理解し繋がり分かち合うことを忘れようとしています。本当に冷たく、さみしいこと。この社会を形作る私たちが、その一部だということをこのレントの時に受け止めたいと思います。


 その様な私たち。孤立と孤独。無理解と対立。自分だけで精一杯で他者に無関心となっている私たちとこの社会。

 その中を生きる、無自覚に生きる私たちに対し、主イエスはこのレントの時、足を洗ってくださり語りかけてくださる。「私につながっていなさい」と。


 「自分の言葉ではなく、私の言葉をいつも胸におきなさい」と。繋がって生きること。頼って生きること。神の目に豊かに生きること。自立して、私たちの目に豊かに生きるのではない。「弱さの中で、罪の中で、その中で、私を頼って生きなさい」とおっしゃるのです。罪人として、従ってきなさい。


 私たちはこの「ぶどうの木」の聖書箇所を読むときに、「私から離れるな」「豊かな実を結べ」「焼いてしまうぞ」……と、脅迫的な感覚をもって読み、聞いている。しかし主イエスは、十字架の死のまさにその前夜、最後の晩餐の席上で、弟子たちと私たちに改めてこう証をしてくださっているのです。命がけの証を。


 「私は、あなたがたとつながるために父から離れ地上に下ってきた。だから、私のこの手に、愛に、言葉に依り頼み、離さないようにしっかり握っていなさい。私は離さないから。」

 「つながっていなさい」……これは私たちへの努力を求める言葉ではありません。ましてや裁きの言葉ではありません。自らその時を知り、望んでくださった十字架の前夜ですから。「私はあなたとつながっている。」という主による約束の言葉。主イエスはおっしゃる。「私は、あなたを離すことはない。何があってもあなたを離さず、必ず滅びから救い、救いへと導く。」と。


 私たちは誰一人よい実をつけるものはなく、切り取られ討ち捨てられ焼かれるに相応しい一人ひとりです。それは間違いない。今まさに切り取られようと、自ら切り取られて生きることを望んでいるような日々の中にあって、主イエスは言われます。


 「父よ、お待ちください。この枝は今、自らよい実をつけることはできません。しかし私が必ず導きます。ですからどうかお救いください。代わりに、私があなたから切り取られ、焼かれて参ります。」と。


 主の御苦しみを覚えるレントのこの時、今一度胸に刻みたいと思います。主イエスの十字架が、私と主イエスの「命がけのつながり」を証する出来事であるということを。


 「今日ここで焼かれるのは、枝(あなた)ではなく、幹である私自身である。」……主は何というお方でしょう。こんな私のために死んでくださるとは。

「一人にはしない。孤独にはしない。なにがあっても、十字架と復活という最大の愛で繋がり続ける」という、主イエスのその想いと意志。

 誰もが「繋がること」をあきらめかけているこの時、主イエスの愛と想いを、胸に刻みたいのです。

 繋がることは、傷むこと、焼かれること。主イエスに信頼と感謝を。





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