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2021年3月28日(日)聖日礼拝

【受難節第6主日】

礼拝説教「キリストによる励ましを受けて」

 古屋 治雄 牧師(白鷺教会代務者、阿佐ヶ谷教会牧師)

<聖書>

フィリピの信徒への手紙 2:1-11


<讃美歌>

(21)12,298,305


 白鷺教会の皆さんと共に2021年の3月の日々を過ごし、受難週の主日となりました。本日は2020年度最後の主日であり、そして主イエス・キリストがいよいよ十字架に向かうことが鮮明になったエルサレム入城の主日、棕櫚の主日を迎えました。この一年を振り返ると、私たちの救い主イエス・キリストはすでにこの1年私たちの困難を知っていてくださり、私たちがこの困難を主に信頼して乗り越えることができるように先んじてその困難を負ってくださり、私たちから信仰がなくならないように、私たちを守り、支えてくださいました。

 一年前長老方が阿佐ヶ谷教会をお訪ねくださり、私は代務者要請をお受けしました。そしてその時、長老方との懇談をとおして主任牧師が転任されることになり牧者不在の中で2020年度の歩みに踏み出さなければならない教会全体の不安が私にも伝わってきました。すでに昨年の2月3月の時点でコロナウイルスが蔓延し始めていたのですが、現時点で思い起こすとまだこの危機感ははっきり自覚されていなかったと思います。昨年の月報にも記しましたが、白鷺教会は2020年度二重の試練を受けつつ歩みださなければなりませんでした。

 私たち白鷺教会が共に経験してきたこの1年を振り返る時を与えられています。教会員の皆さんの家庭生活においても2020年度はきっと大変であったと思います。そして皆さんにとって白鷺教会での教会生活は全生活の根幹をなし、土台となっているゆえ、教会員の皆さんすべてにとってかつて経験したことのない二重の困難を背負いながらの1年であったと思います。

 受難節、とりわけ受難週は、私たち人間が神様の御言葉を聞き入れ、神様を信頼して生きる者とされているにも拘わらず、神様に背き、本当は自分のことしか眼中にない者であることが明らかにされ、神様に背く者でしかないことをとことん知らされる時であり、そのような私たちの神様への背きを懺悔し告白する時です。確かにこの1年私たちは二重の困難の中にありましたが、この間私たちがいつもまっすぐ神様の方を向いて神様に従って歩んできたかというとその様に主張することなどまったくできません。しかし今週いよいよ主イエスの十字架への歩みがはっきりしますが、この1年主はどんな時にも私たちの困難を知っていてくださり、先んじて担ってくださったゆえ今日を迎えることができたことを主に感謝します。

 どのようにこの1年主は私たちの白鷺教会の困難を担ってくださったのでしょうか。まず、私たちは主任牧師がいない中で様々な教会と教職の協力を得て、主日礼拝を御前にお捧げすることができました。時には代務牧師の教会の配信礼拝に合流することもありました。説教予定者がその原稿を提示してくださり、説教原稿を共有するかたちで御言葉に与ることもありました。コロナウイルスが蔓延して感染の危険を避けるために白鷺教会に参集することを断念し、しかし、配信の利器を活用して礼拝を守ることができました。このために長老会たちは粉骨砕身努力をしてくださいました。しかしこれらの取り組みは、教会の主が白鷺教会を支え導いてくださっていることを確信するがゆえに為し得たことです。神様が「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」(Ⅰコリント3:9)とお立てくださったことに相違ないのです。

 プロテスタント教会にも教職と信徒の違いはありますが、「全信徒祭司制」(以前は万人祭司と言われていました)が基本線で、教職と信徒の身分的な違いは認めません。しかし教職の責任が軽んじられてはなりません。その責任は教会全体の中で重んじられ祈りによって支えられるべき務めです。長老会を中心にして牧師招聘委員会が組織され相応しい主任牧師をお迎えすることができるようにと祈りまた具体的な手立てを尽くしてきました。関係神学校への人事斡旋のお願いにも出向きました。この間コロナ禍にあっても新しく牧師を迎える教会の在り方、また長老会の役割等限られた時間ではありましたが、教会全体で学ぶ機会を持つことが出来ました。そして神様は私たちに新年度から相応しい主任牧師をお遣わしくださることになりました。ここにも教会の主の白鷺教会に対する導きを覚えるものです。

 不十分ながら代務者としてこの1年白鷺教会の皆さんと共に歩んで来ました。隔月一度の主日礼拝説教担当と説教担当者リスト作成、定例及び臨時長老会の議長及び隔週木曜日の祈祷会での聖書解説が主なる具体的な責任分担でした。これらの働きは長老会の皆さんによる働きそのものです。大きな危機に遭遇するといままで見えていなかった諸問題が浮上し顕在化するということがあります。白鷺教会にとってもそのように言いうる点があると思います。しかし主の教会とされてきた白鷺教会は、顕在化した課題によってバラバラになるのではなく却ってその現実を受けとめて、教会を造り上げていく神様の力をいただくことができたと確信しています。長老の方々のみならず、教会員の皆さんが神様の前で(人の前でではなく)決断して奉仕を申し出、賜物を捧げ、また持てる宝を神様のために教会にお献げくださる事実に触れて、白鷺教会に神様が生きて働いてくださり、教会員の皆様が本当に教会の主を全生活を挙げて信じて生きようとしていることに深い感銘を受けました。「主の御名はほむべきかな」

 代務者としての務めを間もなく古屋は終えようとしています。コロナのことで礼拝生活もままならぬ状況下にあり、白鷺教会の教会員お一人おひとりへの牧会的な責任を果たし得なかったことを主の前に懺悔いたします。この一年本務教会での牧師としての働きだけでなく、白鷺教会の皆さんと共に2020年度を歩むことが出来たことは牧師として主に感謝すべきことでした。共に礼拝に与ったこと、祈祷会で御言葉を学び祈ることができたこと、これら恵みを覚え教会の主に感謝します。

 白鷺教会は4月から主任牧師として働いてくださる願念望先生とまたご家族の皆さんを迎え新たな歩みを始めます。白鷺教会は神様がこの地に立ててくださった神の教会です。すでに74年の歴史を与えられ、福音の橋頭堡として鷺ノ宮に立てられている主の教会です。そして私たちはそれぞれが孤立して教会活動をしているものではありません。事実西東京教区の交わりの中にあり、多くの教職方にサポートされてきたことに現されているように共に祈り合い助け合う教会として公同教会に連なっています。

 受難週に入ったこの主日にフィリピの信徒への手紙2章の御言葉が与えられています。フィリピの教会の人々も様々な課題を与えられていました。使徒パウロはそのことをよく知っていました。そしてこの主の群れに熱情的な勧告を書き送っているのです。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(2:1-2)と。この勧告はパウロが使徒として語りかけていることに相違ないのですが、パウロは自分を発信元として呼びかけるのではなく、教会の主イエス・キリストご自身を発信元として語っています。6-11節は「キリスト賛歌」と言われている御言葉です。パウロが自分で語っているというより、すでに当時の初代教会の中でこの賛歌は文字通り讃美歌のようになってキリスト者の間に流布していた信仰告白の遺産(ヘリテージ)となっていた言葉であろうとされています。主イエスがご生涯を通して、そして特に受難週から復活された日に成し遂げてくださった救いの出来事がまとめられています。8-9節でキリストによる救いの出来事のクライマックスが賛美されています、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」と。ここには主の死に至るまでの従順が強調され復活は直接語られてはいません。しかし、確かに復活の希望が拓かれています。

 2021年度の私たちの教会の歩みが受難週から主の御復活を祝うイースターへと展開する中で始まります。主イエスが私たちの困難と闇を先んじて背負いあらゆる「死」の現実を自らの中に引き受けてくださいました。しかし、主イエスはその「死」のままで終わらず、すでに受難の予告のなかで「三日目に甦る」ことをもはっきり預言しておられましたが、実際そのとおりその「死」から復活されました。2021年度最初の主の日がイースターの喜ばしい主の日として備えられています。主イエスが十字架上で死なれたことを覚える私たちは、間髪を入れず主イエスの復活を想起することが許されています。

 使徒パウロは高らかに宣言しています。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。……わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:5,8)このパウロの言葉は信仰者個人に対してと同時に教会共同体のことを語っているとみることができるのです。

 2021年度の歩みに就こうとしている白鷺教会の群れのうえに主の復活の命がゆたかに注がれますように祈ります。 



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