【受難節第5主日】
礼拝説教「逆風の中で知る恵み」
棚村 惠子 牧師(元東京女子大学特任教授)
<聖書>
マルコによる福音書6:45-52
<讃美歌>
(21)6,57,532
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
主イエス・キリストは真夜中にガリラヤ湖のど真ん中で逆風のために船を前進も後退もさせられずあせりと不安、そして恐怖のゆえにパニックになっていた弟子たちに声をかけられました。今日、同じように教会という舟は主の言葉かけを待っています。長引くコロナ問題に心身は疲れ、「一体、主イエスはどこにおられて、この私たちの窮状をどのようにご覧になっているのだろうか、主よ、早く何とかしてください。」と主を責め、ともすると主への信頼も信仰もなくなり、心が鈍くなっていくのを覚えてはいないでしょうか。
しかし、全世界がパンデミックという逆風に遭遇する以前、日本の教会はどうだったでしょうか。決して順風満帆であったわけではありません。教会は、主の弟子たちがあの湖で苦労したように常に漕ぎ悩んできたと言ってもよいと思います。しかし、一方逆風の中でこそ溢れるばかりの主の愛、憐み、そして恵みを知らされて前進してきたことも事実です。
ところで、私が牧師として初めて聖餐式の司式をしましたのは、ある地方の無牧教会においてでした。そのとき、礼拝に出席していた教会員はたったの4名、他教会の方を含め10名足らずでした。私は逆風にあえぐ日本の教会の現実を知らされ大きなショックを受けました。牧師館は閉ざされ、わずかな会員が礼拝を守っている、まさに消えようとしている教会だと思わざるを得ませんでした。何とも寂しい聖餐式でした。
これに対して、4つの福音書すべてに描かれているのは、さびしい聖餐式とはまったく逆の五千人以上の人々に主がパンを配られたエピソードです。主イエスのうわさを聞きつけた大勢の人々が休みをとろうとしたイエス一行を追いかけ、み言葉を聴きたい、病気をいやしていただきたいと願いました。その群衆の空腹を満たすために、主イエスはたったパン5つと魚2匹を手にとり祝福して弟子たちを通して分配され、すべての人を満足させたという奇跡のエピソードは主イエスのガリラヤ伝道のハイライトだと思います。主イエスと弟子たちの伝道はこのとき順風満帆のように見えました。今日の日本の教会はこの物語を読むたびにため息をつきます。こんなに大勢の人が集まる教会は日本ではついぞお目にかかったことはないと。小さな群れはとても苦労しているからです。
しかし、主イエスのガリラヤでの伝道活動の中でピークともいえるこの五千人の給食がそれを手伝った弟子たちの記憶に必ずしも「あのころは素晴らしかった」という栄光の思い出として残ったのではないことを、福音書記者たちは見逃してはおりません。なぜならマルコ、マタイ、ヨハネの福音書では、続くもう一つの奇跡、すなわちガリラヤ湖での主イエスのエピソードと結び付けられているからです。それは何を意味するのでしょうか。今日朗読しでいただいた記事の最後には「弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」という結びがあります。素晴らしい奇跡の手伝いをした弟子たちの心が鈍くなっていたとは驚きます。このようにパンの出来事と湖の出来事とは連続しています。ではその二つはどのように関係があるのでしょうか。
マルコによる福音書6章45節によりますと主はパンの出来事のあと、弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、ご自分は群衆を解散させてひとり祈るために山に登られたとあります。主イエスは何をひとり祈られたのでしょうか。並行記事であるヨハネによる福音書6章15節には興味深い一節があります。これはパンの奇跡の締めくくり部分ですが、「イエスは人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」と書かれています。
主イエスは自分を追いかけてきた群衆の中に危険な兆候をご覧になりました。神の御子としての使命はこの世の王になることではなく、人々の罪を贖うためにご自分の命を差し出すことでした。しかし、人々は病を癒し、パンを配る奇跡をなさった主イエスを新しい王としようとしました。確かに、歴史的にはパンを配り、人々を満足させることはローマ帝国の皇帝がしたことでした。人々を喜ばせ、楽しませ、要求を満たす王になったらどうか、それは主イエスにとって危ない悪魔の誘惑でした。「神の子なら石をパンに変えてみろ」と悪魔が荒野で主イエスを試みたように、パンの奇跡に驚嘆した群集心理の中には悪魔の誘惑が潜んでいたのです。主はそれを察知されていたとヨハネによる福音書は語ります。だから主イエスは群衆から身を引き、山でひとり祈らないではいられませんでした。
そもそも、主と弟子たちの一行を追いかけてきた人々を邪険に追い帰さず、教え、癒し、パンの奇跡をおこなわれた主の動機は、人々に神の子の力を見せつけるためではなく、飼うもののいない羊のような有様を深く憐まれたからでした。また、その奇跡は主イエスがやがて十字架で死に、復活されて永遠の命という朽ちないパンをくださることのしるしでした。それこそが主イエスの使命であられました。主イエスは群衆を解散させ、ひとり山に登られ祈られました。どうか、み心が行われるように、どうか誘惑に遭わせず悪より救い給え、どうか、使命を果たさせ給えと祈られたのでしょう。群衆を憐れみつつも彼らのサタン的要求に屈することなくご自身の最終的使命に忠実であるために主はひとりになられました。
こうして、主イエスと弟子たちは陸地と湖とに別れることになりました。47節によりますと、夜になって弟子たちの船は湖の真ん中で逆風のために立ち往生しました。暗闇の中で弟子たちの心にはあせりと不安がよぎったに違いありません。主イエスから離れ孤独であった彼らは嵐に翻弄され疲労困憊し、なすすべを知らないで試みの夜を過ごしました。弟子たちのうち4人は湖の漁師でしたから、風の変化には慣れていたはずですが、それまでの経験がまったく役に立たなかったようです。命の危険もあったことでしょう。
私どもの信仰生活や教会にもこのようなピンチのときがあります。信仰があやふやになる、イエスが共にいてくださることを信じられなくなる経験はどなたもなさっていることだと思います。逆風の強さ、荒まく波の大きさに動転し、長年の落ち着いた信仰生活がいっぺんでひっくり返ることがあります。使徒たちも同様ではなかったでしょうか。彼らは主イエスから選ばれ、派遣された人たちです。悪霊を追い出し、病人をいやす権能を授けられ喜んで懸命に働いたと思います。五千人の給食のときも、主イエスの手伝いをしてたくさんの人々を青草の上に座らせ手ずからパンと魚を配ったとき、彼らは弟子として誇らしく思ったに違いありません。その誇りも自覚も、湖での予期しない強い風によって吹き飛ばされたようです。彼らはただ怯えて泣く子供のような有様になりました。これこそ逆風の中で誰しもが知る人間の本当の姿です。
さて、弟子たちが夜通し漕ぎ悩んでいる様子を陸地におられた主イエスはどうご覧になり、どう行動を起されたのでしょうか。48節後半には主は陸地から弟子たちの苦闘をご覧になって、夜が明けるころ、嵐の湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとなさいました。それにしても主イエスの行動は不可思議です。もし、弟子たちを助けるためでしたら、どうして通り過ぎようとされたのか。そもそもなぜ主は強いて弟子たちと行動を別にされたのか本当のところは分かりません。ただ、いずれにしても主はこの先、十字架への道をひとりで歩まれ、復活され、天に昇られ弟子たちは地上に残されたのですから、将来の教会の試練を先取りして弟子たちに予行演習をさせたのかもしれません。
このとき、暗闇で舟のそばに人影を見た弟子たちは、幽霊だと思って恐怖のあまり大声で叫んだと書かれています。そのとき主はすぐに言葉をかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と。弟子たちからしてみれば、思いもしない主の出現でした。このことは、神様の介入が、私たちの期待と予想を超えた時と場所で起きるということを表しています。神様はきっとこのように働かれると決めてかかるとき、そうでない現実を前にすると理解不能となり、気が動転して信仰すら簡単に捨てます。神様がお助けくださるやり方は神様の自由な思し召しであり、人間はそれを信頼するしかありません。
弟子たちに別行動を促されたのは、主イエスがあえて逆風の吹き荒れる湖という世界で彼らだけでどのように壁を突破するのか試されたとも言えましょう。しかし、そのテストにも予行演習にも弟子たちは見事に落第しました。弟子たちはかつて主イエスの権能を分けていただき人間には通常できない業をするものになっていたはずでした。ところが、湖上の風に翻弄されたとき、ただの弱い人間でしかないことが露呈されました。こともあろうに、近づいてこられた主を幽霊だと怯えパニックになってしましました。使徒の誇りも自信も信仰も喪失したただの人間の姿でした。
皆さんは恐怖にかられて大声で叫んだという経験がおありでしょうか。私はまだ小さかったころ怖い夢を見ることが多く、そのたびに泣きました。そのとき、母がすぐに「またオオカミの夢を見たのかい?大丈夫、大丈夫」と頭をやさしくなでてくれ、安心して眠りについたことを覚えています。幼い私にとって「オオカミ」とは存在を怯えさせるすべてのものの象徴でした。母親の「大丈夫、大丈夫」の言葉に救われたことを今も覚えています。
私たちはいくつになっても、言いようのない恐怖に襲われることがあります。それが死への恐れであれ、芥川龍之介の言葉のように「ぼんやりとした不安」であれ人間を金縛り状態にします。それは、正体を見れば枯れ尾花であるかもしれませんが、恐れにとらわれた人間にとっては大声を上げて助けを求めるほどリアルです。弟子たちはこともあろうに愛する主イエスを暗闇の中で幽霊と見間違えたというのですから弟子としては面目丸つぶれですが、肉眼には見えないお方を見、その言葉を聴く私どもにとっても他人事ではありません。
さて、主イエスはそこで、どうされたでしょうか。50節によりますと主イエスは怯える弟子にすぐ声を掛けられます。「大丈夫、大丈夫、安心なさい。わたしだ。恐れることはない」と。まるで悪夢に怯える幼児の頭をなでてなだめた母親のようです。主はご自分を幽霊だと怯えて大声を上げる弟子を「ばかもの、しっかりしろ、信仰の薄いものよ。お前たちは失格だ!」とお叱りにはなられませんでした。まず言葉をかけて安心させ、そして本来だったら通りすぎる予定を変更して舟に乗りこまれ、風を鎮められました。パンの奇跡と同様に、湖上の主の奇跡は限りなく人を憐れむ主イエス・キリストを表しています。
信仰とは目に見えない主の御臨在を信じ、愛し、従うことです。しかし、私たちは人生の道行や教会の状況においてその信仰が揺らぐことがあります。逆風とは私たちの前進を阻むあらゆる困難です。現在、私たちは未曾有の目に見えないウイルスのしぶとい攻撃に遭い、あらゆる計画の変更を余儀なくされるだけでなく、教会の礼拝や聖餐式もままならない状況です。一体、イエス様はどこにおられて私たちを助けてくださるのか。と私たちの信仰は揺らぎます。しかし、主は思いがけない仕方で私どもの後ろに、横に、前方に、そして私たちのただ中におられます。愚かにも主を幽霊だと見間違う弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。逆風の中でこそ知る主の恵みです。
物語の最後には、こう書かれています。「弟子たちはパンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」と。パンの出来事において主がなさった動機やしるしの意味について分かっていなかったとはマルコによる福音書記者のコメントです。飼うもののない羊のような有様の人々を深く憐れむ主、湖上で混乱していた弟子たちの心を鎮めてくださった主がそうなさったのは弟子たちへの深い憐みのゆえでした。その同じ主は人々の喝采を浴びて王になる道を断固退け、十字架の苦難の道をひとり行かれました。命のパンを配られるためです。
その主の深いみ心が分からなくなること、それが「心が鈍い」ということです。主は困っているすべての人をただ傍観されているのではありません。主は心が鈍い私たちにもかかわらず思いがけない仕方で助けてくださいます。聖霊なる神様が私たちに主の御臨在を示します。主は逆風荒れる波の上を近づき、その言葉と存在によって救ってくださいます。
最後に、私がはじめて聖餐式の司式を行った小さな教会のその後をお話しましょう。飼い主のいなかった羊の群れは、牧師を迎え奇跡的に息を吹き返したそうです。私は自分の不信仰と心の鈍さを恥じ入りました。主の憐みによる思いがけない奇跡を理解しないで伝道はありえず前進もありません。逆風の中で主の恵みを知ることなしには突破できません。怖じ惑う私たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言ってご自身を現わしてくださる主に信頼して新しい週へ、新しい年度へと前進してまいりましょう。
祈りましょう。
主よ、どうか聖霊の導きによって貴方を見る目と恵みの言葉を聞き分ける耳をお与えください。主の憐みを知る者としてください。アーメン
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