【受難節第4主日】
礼拝説教「渇かない水」
上田 充香子 伝道師 (阿佐ヶ谷教会)
<聖書>
ヨハネによる福音書4:7-10
<讃美歌>
(21)57,306,404
私たちは今、受難節を過ごしています。この受難節はいつもにも増して特別な気持ちで迎えておられる方々が多いのではないかと思います。この1年間、白鷺教会が無牧の間、何度か説教させていただく機会が与えられましたけれども、役員の方々を始め、教会に連なるお一人お一人が礼拝をおささげする姿勢を拝見し、本当に主に対して生きる、礼拝で命をいただくその姿に私自身も背筋が伸びる思いでした。無牧というだけでも十分大変なのに、そこにこの一年はコロナウィルスのことが加わり、本当に大変なご苦労があったことと思います。本来であれば本日も教会に伺い、会堂で共に礼拝をおささげするはずでありました。しかし知恵と力が与えられて、このようにオンラインで礼拝をおささげできることもまた、大きな喜びであります。この受難節の時、共にこの教会と歩んでくださった主イエスが、十字架へと向かってくださっています。例年よりも一層、主イエスの御苦しみがよく分かる、そんな受難節なのではないでしょうか。この時十字架への道のりを歩まれたその主イエスの歩みに思いを馳せ、また同時に自らの罪を悔い改める時を共に過ごしたいと思います。
今日読ませていただいた聖書の箇所は、十字架の出来事に対してはまだ随分時間がありますけれども、主イエスが苦しんでおられる姿から始まります。今日の箇所の直前の主イエスの苦しみが6節に記されています。「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」主イエスは旅に疲れておられました。もう歩けない。喉が渇いた。暑い。今の私たちとは正反対の気候の中で歩き疲れた主イエスが、井戸までやって来られた。しかし、井戸から水を汲むための道具はお持ちではない。そこに水があるのに、飲む事は出来ない。そんな環境の中におられる。今は私たちは冬から春にかけての季節を過ごしておりますので、暑くて喉がカラカラだというこの主イエスの状況には共感しづらい中にあるかもしれません。しかし、容易に想像する事は出来ます。またこのような冬だからこそ、朝起きたら乾燥でのどがカラカラになっていることもある。朝一番に飲む水は、水が今、体のどこを通っているかが分かるほどに細胞中が喜ぶものです。この体と同じ体を、主イエスが私たち人間となんら変わらない同じ体を持ってこの世に来てくださっていることがここから見ることができます。長く歩くと疲れる、暑いと喉が渇く、そのような身体を持って私たちと同じ苦しみの中で生きてくださっている。私たちはこのたった数行の主イエスの御苦しみからも恵みを受け取ることができるのです。
そこにやって来たひとりの女性。この女性の背景についてこの女性の言動から知ることが出来ます。この時代、正午頃に水を汲みにやってくる人はまずいません。人気を避けて来ていることが分かります。人に会いたくない、関わりたくない心理がこの女性にあるのです。また、これはもう少し後に書かれていることですが、この女性は今まで5人の夫がおり、なんらかの理由で別れ、そして今は6人目の男性と結婚関係にないままに共に暮らしている。そのような背景から、人から疎まれ、嫌悪されて生活しているのがこの女性です。この女性に主イエスは、主イエスの方から話しかけます。「水を飲ませてください。」これもまたこの女性にとっては驚くべきことでありました。ユダヤ人である主イエス、この時のこの女性からしたらユダヤ人男性がサマリア人であるこの女性に声をかけることなど、あり得ないことだったからです。ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲。男女間の隔たり、人種の隔たり、そのような隔たりを軽く超えて話しかけてくるこの男性、主イエスに対して女性はとても驚くのです。そんな女性に対して主イエスはこのように答えました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」また「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」とも言われました。しかし女性は主イエスが言っているこの言葉の意味が分かりませんでした。この「生きた水」、「渇かない水」という言葉の意味がわからなかった。だから、もうわざわざ暑い時間に重い、しんどい思いをしなくて済むなら、ここに水を汲みに来なくてもよくなるその水をください、と願いました。この女性の心理を私たちに重ねて読むことができるのではないかと思います。喉が渇いたとき、私たちは水が欲しいと思います。今、この喉の渇きを潤したい。そのことだけが自分にとって最重要事項となる。人間は特に、飢え渇きに対しては敏感であり、目の前のそのことだけを考え、それ以外のことを考えることが出来なくなる者であります。同じように、飢え渇きだけでなく、欲に対してもまた、目の前の欲求を満たすことばかり考えてしまう者です。食欲、性欲、財欲、欲を挙げるとキリがありませんけれども、欲という言葉以外でも、悲しみを埋めるため、寂しさを埋めるため、その私たちはお金や時間を厭わない者です。そしてその欲に忠実な人間に歩み寄ってくる悪がある。詐欺などの目に見える犯罪もそのような人間の性質をよく捉えているからこそ起こるものでありましょう。また、目に見えない、法で裁けない悪もあります。私たちが欲に負けてしまうように囁き、主イエスから、父なる神様から離そう、遠ざけようとする悪の働きです。この女性の中にもそのような弱さがあった。欲に負けてしまう弱さが。だからこそ、この時も目の前の渇きから救われるかもしれないという主イエスの言葉に心踊ったのです。
しかし、主イエスはその女性とは別の次元の話をしておられた。目の前の渇きではなく、この女性を根本から、根っこから救い出す、そのための渇かなない水について話しておられたのです。人間を救うのは目の前の渇きからの救出ではない。魂の救出、魂を潤す主イエスの言葉、救いの言葉によってこの女性を、また私たち人間を救い出そうとしてくださるのです。ですから主イエスは仰います。「婦人よ、わたしを信じなさい。」婦人はなおもこの主イエスの言葉にすぐに理解を示したわけではありませんでしたけれども、主イエスが礼拝について解いてくださり、今まさに目の前にいるのがキリストと呼ばれるメシアであることを知らされるのです。本来ならばこの経緯ももっと詳しく見たいところですが、2、3週間この箇所で説教出来るぐらいの大切な、重要な事柄が今日の箇所には沢山詰まっていますので、全てを取りあげる事は叶いません。しかし、その対話の中で女性は心から自分を救ってくれる、私たちに救いの一切を知られてくださるメシアが、今目の前にいる主イエスであることを知るのです。目の前の渇きではなく、自分の人生を根本から潤してくださる、そして永遠に渇くことのない水を与えてくださるのはこの人だと知らされたのです。
私たちもまた、この女性と同じ救いが知らされています。私たちはこの後更に、主イエスが十字架に歩まれた道をも合わせて知らされている。主イエスはこの後、ヨハネによる福音書の中で、十字架に架かられた時、「渇く」と言われました。十字架上でご自分の役割がもうすぐ終えると悟られて、「渇く」と言われた。そして「成し遂げられた」と言われて息を引き取りました。今日の箇所、そして十字架上での主イエスの言葉共に知らされている私たちはこの2つの場面が決してバラバラのものではなく、一貫している主イエスのお言葉であるということが出来ます。なぜ主イエスが、自ら「水を飲ませてください」と声をかけたのか、それはこの女性を、また今この御言葉を聞く私たちにも、同じ言葉をかけられたのか。それはこの4章から十字架の場面、つまり人生を終えるその時まで、主イエスは一貫して私たちを救おうと声をかけてくださっているということです。ご自分の体が旅に疲れ、喉が渇いている、私たちと同じ弱き体を持って、主イエスはどんな時も私たちを救うために声をかけてくださっています。渇かない水に与らせるために、永遠の命に至る水を与えるために、声をかけ続けてくださっているのです。
女性はその主イエスの救いに預かり、新たにされて、心から潤って、町に人々に主イエスが行なってくださった業を伝えに行きました。今まで避けていた人々に自ら関わりに行った。それだけではありません。彼女は水がめを置いたまま町へと向かったのです。当初、彼女は水を汲みにここにやってきたはずでした。しかし、その目的を置いてでもこの出来事を伝えに行かざるを得ないほどに、主の救いがこの女性を動かしたのです。もう目の前の欲や弱さに踊らされていない彼女の姿がここにあります。目の前の渇きを満たすための水がめはもう彼女には必要なかった。もう既に根本から主イエスによって潤っていたからです。
私たちに与えられている救いは、目の前の欲に打ち勝つことの出来る、それを捨ててでも人に伝えに行きたくなるような大きな恵みです。この時期、私たちは年度末を過ごし、新しい年度に向けて新たな気持ちで備える時でもあります。この1年、白鷺教会には大変な出来事がとても多かったと思いますが、その間も主イエスが御言葉を語り続けてくださり、十字架への道を先立って歩んでくださいました。その恵みを数え、皆で感謝したいと思います。そして来たる新たな年度、牧者が与えられ、白鷺教会が新しい気持ちで歩み出すその時に、目の前の欲に打ち勝ってくださった主イエスが、私たちに与えてくださった救いを持って、大胆に雄々しく主イエスをまだ知らない方々のところに行って、主イエスが私たちに成してくださった救いの業を伝えに出かけて参りましょう。
祈ります。
天の父よ、あなたが私たちにお与えくださる恵みに感謝いたします。救い主が、今目の前にいてくださる主イエスだと私たちに教えてくださった恵みに、新たに始まったこの週も生きることが出来ますように。白鷺教会の年度末の歩みを祝福し、迎える新たな年度をあなたご自身が力強く導いてくださいますように。オンライン礼拝にあずかることの出来ない教会員の方お一人お一人をもあなたが各所においてあなたの言葉に預からせてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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