【降誕節第7主日】
礼拝説教「主に委ねる-困難の中にあって-」
野田 沢 牧師(学生キリスト教友愛会(SCF)主事)
<聖書>
出エジプト記2:1-10
<讃美歌>
(21)58,361,528
エジプトの奴隷状態からの解放と自由、また信仰的自立。しかし寄留の民として流浪の民として今日の不自由と明日への不安。人々の混乱の中での啓示と神への立ち返りの物語。
この壮大な神のイスラエル民族の苦難の中からの救いの計画は、彼らだけの物語ではありません。我々に対しての、壮大なイエス・キリストの救いの計画を思い起こさせます。私たち一人一人の救いの計画、キリスト者の救いを暗示するものとなっています。今日の聖書の箇所は、今の私たちにも繋がる、そんな神のご計画の始まりにあたります。
モーセの生まれた3000年ほど前のエジプト。イスラエルの民は国中でおびただしく数を増して、国民の3分の1ほどになったと言われています。そしてエジプト王ファラオは、イスラエル人の多さに脅威を感じ、虐待しました。
それでも増え続けるイスラエルの民に対し、ファラオは「新たに生まれたイスラエル人の男児をすべて、ナイル川に投げ入れて殺せ」と命じます。大いなる災難。エジプトに住むイスラエルの民にとって、これは「滅びの宣告」。
このような時に、モーセは生まれます。「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ」(2:1~2)。
母は殺すに忍びなく、三ヶ月間隠しておきました。しかしついに隠しきれなくなって、モーセを手放す決心をします。パピルスで作ったかごを作り、アスファルトとピッチ(タール)で防水加工をし、その中に赤ちゃんを入れてナイル川の葦の茂みにそっと置きます。
彼らは、出来る限りのことをして最善を尽くしました。そしてその後で、全てを神様の御手に委ねたのでした。
ヘブライ人の子どもたちの命を飲み込んできたナイル川に我が子を置き、神のご判断に委ねよう。それが、モーセの命を救う唯一の希望でした。
そして、その母の祈りは聞き届けられます。
エジプトの王女が川から引き上げ、「水の中からわたしが引き上げた」という意味の言葉(マーシャー)からモーセと名づけます。たくさんの幼いヘブライ人の子どもの命を奪った川から、モーセは引き上げられた。神が、王女をお遣わしになった。
あまりにでき過ぎた話です。王女が拾い、それを見ていたモーセの姉が、「ヘブライ人の乳母を探しましょうか」と言います。そして母を連れてきて、王女の命によりモーセは、「王女の費用で、母の下で暮らすことができた。」
結果だけ見れば、あまりにでき過ぎています。
……この出来事は、「幸運(ラッキー)」や「うまくいった」なのでしょうか。
モーセの家族は、王女の優しい性格や、いつどこに水浴びに来るか、などはリサーチしていたかもしれません。我が子の命がかかっていますから、人としてできることをすべて尽くしたことでしょう。
しかし少なくとも、モーセ自身と後のイスラエルの民は、この出来事を「ラッキー」や、「うまくいった」、「偶然が重なった」、とは受け止めてはいません。そのようにはまったく受け止めてはいません。
モーセ自身とイスラエルの民は、この出来事の中に「必然」を見た。この幼子モーセの出来事は、神の計画の中にある出来事として受け止めた。
モーセのその後の歩みを見たとき、出エジプトというモーセの大いなる役目を見たとき、今回の幼子モーセへの出来事が「神の出来事」であったことは、イスラエルの民でない我々もアーメンと受け取れるはずです。
モーセは、神様の守りの御手の内に救われた。アーメン。
また、親たちや家族、それに巡り会った人々の好意と憐れみなどによって、その時々を救われた。アーメン。
その出会いは、偶然の出会いではなく神様によって導かれた出会いであった。アーメン。
神に守られ、導かれ、また兄のアロンとともに神をのみ信じ従い、出エジプトという大いなる業を成し遂げた。アーメン。
私たちも同じです。多くの人々の好意と、主の愛と憐れみにより支えられている。大変な社会の中で、度重なる災害や病気などの不安や痛みの中で。
神は、イスラエルの苦しみを知っておられた。だからこそ、我々の苦しみ、痛み、迷いをも知っておられる。
苦しみの時、我々は言う。「神はどこにいる?」。しかし、私たちの歩みの中に神がいるのではない。神ご自身のご計画の中に、私たち一人一人がいる。主の憐れみとご計画の中に、私たちはある。
私たちは、「主のご計画の中を生きている」。「主の時、主の永遠の中を生きている」。
私たちは今、本当に混乱の中を生きています。毎年のような災害、コロナウィルスの不安、そこからくる二次的な経済的、健康的不安。
そのような中に生きる私たち。そのような苦難の民は、私たちキリスト者は、神にとって、神の目にモーセと同じく映る。イスラエルの民と同じく映る。
モーセとイスラエルの民を守り導いてくださったときと変わることなく、私たち一人一人に守りと慰めの想いを注いでくださっています。
その苦しみから、絶望から、悲しみから、孤独から、「私は必ずあなたを救う。」と、聖書は語る。どこを開いても、そう語る。
世々の聖徒といわれる人々は、皆その望みに生きた。痛みや苦しみの中にある人々は、抑圧されていた人々は、みなその望みに生きた。イスラエルの人々も、アメリカの黒人も、白鷺教会の私たちの先輩も、「その日を信じて、その永遠の喜びの日々を信じて、この世での一瞬の苦しみの日々を生きた」
私たちが出会ういろいろな悩み、痛み、苦しみ、悲しみ、試練、死すらも超えて、私たちを救う神。
本日の聖書箇所も、神とイスラエルの民との関係を描きつつ、私たち全ての救いの計画を語っている。
私たちキリスト者は天に国籍を持つ者たちです。その希望に預かった者たちです。ですから、クリスチャンはこの世では、旅人であり寄留者である事も忘れてはなりません。旅人は、寄留者、仮住まいの生活というものは不安定です。そもそもが、明日が見えず、不安の中にある生活が常です。
しかし、だからこそ、私たちが今旅人であったとしても、主がモーセを通して行われたことを、我々一人ひとりにもご計画くださっていることをも信じたい。この、混乱の世にあって、私たちを通して主は何を成そうとされているのか。
残念ながら、これからも世の混沌は増してゆくでしょう。人と人との距離が離れ、個人主義がはびこり、自国第一主義の中で国々も人と同じく協力より対立と批判に力を注いでいます。
そのような中で、私たちには健康の不安、経済的な不安が襲い、日常が壊れ、日々のニュースに憂いが増し続けています。
そのようなときには、モーセの母を思い起こしたい。この世の大いなる不安や絶望の中にあっても、モーセの母がナイル川のほとりに、主への信頼の祈りをもってわが子を浮かべるがごとく、私たちの不安も痛みも時間も出会いも主に委ねてゆきたい。
自分自身の「存在すべて」を、主に委ねて生きたいと願います。
祈りを捧げましょう。
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