【受難節第2主日】
礼拝説教「善をもって悪に打ち勝つ」
髙砂 民宜 牧師(青山学院大学教授)
<聖書>
ローマの信徒への手紙12:9-21
<讃美歌>
(21)204,303,475
今朝与えられた「ローマの信徒への手紙」は、キリスト教における最大の伝道者と呼ばれるパウロによって書かれました。新約聖書の中には、このパウロによって書かれたと見なされる手紙が13巻もあります。その中でも、この「ローマの信徒への手紙」は、パウロの代表作とも言える手紙です。この手紙は代々に亘って、読む人々の生き方を根本から変えて来ました。「歴史哲学の巨人」とも呼ばれるアウグスティヌスを始め、宗教改革者として有名なマルティン・ルター、そしてメソジスト教会のルーツでもあるジョン・ウェスレー等も、この手紙を通して回心へと導かれたと言われています。
この「ローマの信徒への手紙」は、大きく2つに分けることが出来ます。12章から後半に入ると言われます。それは11章の最後である36節が、「アーメン」という言葉で結ばれていることからも明らかです。前半の1章から11章には、イエス・キリストにおいてあらわされた神の救いの御業が明白に述べられています。それを受けて、12章から始まる後半では、神から大きな恵みを頂いている私たちが、どのように生きるべきかが具体的に記されているのです。特に12章1~3節では、神を礼拝する生活がいかに重要であるかが記されています。神は一方的な恵みによって、私たちを愛し、罪を赦し、受け入れてくださいました。その大いなる出来事に心から感謝し、その恵みに対する応答として、喜びと希望をもって礼拝を捧げるのです。
神から絶大な愛を頂いていることに気付かされたキリスト者は、今度は隣人を愛する者へと変えられます。本日のロマ書12:10にも、「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と勧められています。しかしその直前の12:9には、「愛には偽りがあってはなりません」と記されています。「偽りがあってはならない(アニュポクリトス)」という言葉は、「偽善者(ヒュポクリテース)になってはならない」という意味です。この「偽善者(ヒュポクリテース)」という言葉には、「演技者、俳優」といった意味も含まれています。俳優は自分以外の役を見事に演じます。しかしそれは本当の自分ではないのです。そのように、どれほど巧みに上辺を飾ろうとも、神によって仮面を剥がされる。神の御前では、偽善は通用しないという意味です。それゆえに、誠実かつ真実な愛をもって互いを敬い、愛し合いなさいと勧められています。
私たちは人間同士深く付き合い、交わることによって、しばしば傷つけ合うことが起こります。そのような経験をすると、お互いに注意したり忠告するのを避け、いつの間にか善と悪の判断を曖昧にするようになってしまいます。そのような私たちに、「愛には偽りがあってはなりません」とパウロは言うのです。偽りの愛、表面上の愛で終わるのではなく、「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と勧められています。主イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために、十字架に架かってくださいました。それはこの私のためであると共に、彼らのため、彼女たちのためである。そのことを本当に悟った時、私たちは真実の愛をもって隣人に接することができるようになるのです。
12章9節から13節には、教会の中での交わり、すなわち教会員同士での関係について記されていました。しかし続く14節以下には、教会の外における隣人との交わりについて勧めがなされています。
あの「山上の説教」の中で、主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。そして主イエスはその御命令を、身をもって実践されたのです。十字架に架かり、人々から罵声を浴びせられる只中で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、執り成しの祈りを捧げられました。ご自分を罵倒する者たちを「呪う」のではなく、執り成しの祈りを捧げられたのです。「キリストに従う」とは「キリストに倣う」、「キリストを真似る」ことであると言われます。十字架の上で執り成しの祈りを捧げた主イエスに倣って、パウロは14節で次のように勧めるのです。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と。
そして17~21節には、善を行い、すべての人と平和に暮らすことが勧められています。真実の裁きは神にあり、報復は自分で行うのではなく、真実なる神にお任せしなさい、というのです。悪に対して善をもってお返しをするのです。旧約聖書の箴言25:21~22には、次のように記されています。「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる」。
皆さんは、5年前に89歳で亡くなられた渡辺和子さんをご存知でしょうか。渡辺和子さんは、岡山県にあるノートルダム清心学園理事長を務められ、ベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』の著者としても有名です。
渡辺和子さんは、かつて陸軍教育総監だった渡辺錠太郎氏の娘です。渡辺錠太郎氏は1936年2月26日、娘の渡辺和子さんの目の前で、ピストルで撃たれて亡くなりました。
高校生の時だったでしょうか、日本史の時間、「二・二六事件」について学びました。これは1936年2月26日から29日にかけて起こった事件です。この事件が起こった年を、「ひどく寒いぞ(1936)2・26」と暗記したことを思い出します。これはご存知のように、青年将校たちが起こしたクーデター未遂事件でした。クーデターというと、現在ミャンマーでアウン・サン・スーチー氏らが軟禁状態となっていることを想起します。
ともあれ、日本で起きた「二・二六事件」では、一部の若い軍隊のリーダーたちが、首相官邸や警察庁、大臣の家など、政府の中枢を次々に襲い、当事の大蔵大臣であった高橋是清や内大臣であった斎藤実(まこと)らを暗殺しました。そして渡辺和子さんの父親であり、陸軍教育総監だった渡辺錠太郎氏も暗殺されたのです。
今年は例年になく暖冬ですが、「二・二六事件」が起こったその日は冷たい雪が降っていました。その時、渡辺和子さんは9歳。吉祥寺にある成蹊小学校に通う小学3年生でした。幼い和子さんの目の前で、愛する父親がピストルで撃たれ、殺されたのです。この壮絶な体験は、渡辺和子さんの心に深い傷を与えました。その後、和子さんは様々な体験を経て、18歳で洗礼を受け、カトリック教会のクリスチャンとなります。しかし修養を積んでも恨みは消えなかったそうです。
けれども「二・二六事件」が起きた50年後、渡辺和子さんは父親を殺した将校たちの法事に思いきって参列したそうです。驚いた将校の弟は、「お父上のお墓参りを私たちこそ先にすべきであるのに、あなたが先にお参りに来てくださるとは!」と、涙を流しながら語ったそうです。この言葉を聞き、自分だけでなく、クーデターを起こした将校の遺族たちも、半世紀の間、苦しい日々を過ごしたことを知り、「心の中で何かが溶けた」と渡辺和子さんは語っています。
渡辺和子さんと言えば、ベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』という本を想起するのではないでしょうか。この本のタイトルは、或る宣教師がくれた短い英語の詩に基づいているそうです。”Bloom where God has planted you.”(神様が植えた所で咲きなさい)つまり、置かれた所こそが、今のあなたの居場所なのだという意味です。
渡辺和子さんは35歳のときにノートルダム清心女子大学に派遣されます。その翌年、学長が急逝したため、36歳という若さで学長に任命されます。そして管理職のストレスを経験するようになったそうです。そしていつの間にか「くれない族」になっていたそうです。「挨拶してくれない」苦労しているのに「ねぎらってくれない」「わかってくれない」。若くて学長になった故に、周囲からの風当たりが強く、自信を失い、もう逃げようと思いつめたこともあったそうです。
渡辺和子さんは30代で管理職のストレスに悩み、50歳の時には過労からうつの症状に陥ったそうです。渡辺さんが80歳になって執筆した随筆『置かれた場所で咲きなさい』は、多くの人々の心の琴線に触れました。それは、9歳の時に父の死を目の当たりにし、その後も数々の苦難と闘いながらも歩み続けた、率直な思いを綴った点にあると思われます。
本の中で、渡辺和子さんは次のように述べています。「置かれたところで自分らしく生きていれば、必ず『見守っていてくださる方がいる』という安心感が、波立つ心を鎮めてくれるのです」。そうです。神さまはいつもあなたを見守ってくださっています。
さらに渡辺和子さんは述べています。「咲けない日があります。その時は、根を下へ下へと降ろしましょう」。長い人生の中には、辛いことや悲しいことが重なって、喜んだり輝いたりすることができない時もあります。「そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために」と述べておられます。置かれた所で咲くということは、仕方がないと諦めることではなく、未来を見つめて積極的に生きることであると示されます。
渡辺さんは様々な体験をしますが、ついに「くれない族」と決別します。「挨拶してくれない」苦労しているのに「ねぎらってくれない」「わかってくれない」。こうした思いを捨て去り、自分から先に挨拶し、微笑みかけ、お礼を言うことを決意します。すると不思議なことに、教員や職員、学生たちも皆、明るくなり、優しくなってくれたといいます。
私たちは渡辺和子さんを通して、次のことを示されるのではないでしょうか。受身ではなく、能動的に、進んでこちらから働きかける。そして人を裁く者ではなく、人を赦す者となる。なぜならば、私たちは、イエス・キリストの十字架に示された神の愛に包まれているから。
さて、本日の聖書箇所に戻ります。15節でパウロはさらに勧めます。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。すぐ後の16節に「互いに思いを一つにし」とあるように、隣人の喜びや悲しみに共感するということです。一つ思いになって共に喜ぶ時、その喜びは倍に膨れ上がります。一方、一つ思いになって共に悲しむ時、その悲しみは半分に減るのです。そして忘れてはならないのは、私たちの救い主であるイエス・キリストこそ、全ての喜びと悲しみを共有・共感してくださる御方だということです。
主イエスは高い天に鎮座ましまして、ただ下界を見下ろすような御方ではありません。神の独り子であるにもかかわらず、私たち人間と同じ肉体をまとってこの地上に降誕してくださいました。お生まれになった時は、馬小屋の飼い葉桶に寝かせられるという最も劣悪な環境の中でお生まれになり、息を引き取る時には、十字架という最も残酷な処刑法によって地上での生涯を閉じられました。ここにも、主イエスが私たちの苦しみや惨めさ、辛さ、悲しみをすべて共有し、共感してくださる御方であることが明白に示されています。
「キリスト讃歌」と呼ばれる「フィリピの信徒への手紙」2:6以下には次のように歌われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。このような御方を救い主として頂いている私たちは、主イエスに倣って、互いに一つ思いとなって共に喜び、共に泣く者へと変えられて行くのです。
主イエスはこの私たちのために十字架に架かり、死んでくださった。その恵みを感謝して受け入れる時、私たちは少しずつ変えられて行き、人を愛し、平和を実現する者となるのです。そして、「善をもって悪に打ち勝つ」ということが可能になるのです。
「神を愛し、隣人を自分のように愛する」。このことを家族の中で、身の回りの隣人との中で、そして信仰による共同体である教会の中で、お互いに一つ思いになって実践して参りたいと祈り願います。
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