【受難節第1主日】
礼拝説教「あなたのホームベース」
森島 豊 牧師(青山学院大学准教授)
<聖書>
ルカによる福音書 15:8-24
<讃美歌>
(21)58,458,452
この年の始まりに 私の友人が 横浜の関内にあります寿町に 炊き出しのボランティアに行きました。寿町は日雇い労働者の街で知られており 、ホームレスの方々が多くおられます。しかし今年はいつもとは違っていたそうです。新型コロナウイルス感染症拡大の影響で生活困窮へと追い込まれる方々が沢山集まっておられました。普段は寿町に足を踏み入れたことがない 若い方々や、女性の方々も多くおられたそうです。その方々が口々に「まさか 自分がこのような場所に身を寄せることになるとは思わなかった」と言っておられました。また同時に、「まさかここがこんなにあたたかい場所とは思わなかった」と言われる方もたくさんおられたようです 。
わたくしもかつて寿町に訪れたことがありました 。最初に訪れたのは私が中学生の時でした。そこに行って驚いたことを今も覚えています。それは、思った以上にそこが家庭的であったことです。皆同じような失敗をした境遇があり、具体的に知らなくても似たような苦しみがあることをお互いに知っているので、何かあるとみんなで助け合っていました。年末年始、日雇い労働者は仕事がなくなるので凍死する方がいます。ですから「越冬(えっとう)」と言って、炊き出しをします。トン汁を配ります。昼間には公園に集まって配り、夜中にはリアカーで布団と トン汁を運んで、路上に寝ておられる方々に配って歩きました 。中学生だった私はボランティアの男性に「なぜこの人たちは公園に取りにこないんですか」と尋ねました。するとその人は 「人間にはプライドってものがあるんだ。どんなに落ちても、落としたくないものがあるんだ。この人たちも俺達と同じ人間なんだ。でもそんなことしてたら死んじゃうだろう。来られないだったら、こっちから行ってあげるんだよ 。俺たち仲間だろう」。一緒に布団を配っている中に、若いお兄さんがいました。普段は ライブハウスでバンドマンをやっているような人でした。かっこいい革ジャンを着て 布団と豚汁を配ってました。その人はトン汁を渡す時に「兄弟」と呼びかけながら配っていました。私は「あの方知り合いですか」と尋ねると「はじめて会った人だよ」と言いました 。「なんで兄弟って言うのですか 」と聞くと 、「人生の先輩だろ。兄貴みたいなものだよ」と言いました 。あそこはアットホームなのです。
よく考えると、あの場所はホームレスではないと感じました。ホームはあるのです。アットホームなのです。正確に言えばあの場所はホームレスではなく、ハウスレスなのです。家がないのです。けれどもホームは持っている。アットホームなのです。
現代の問題の一つは、ハウスの中でホームを失っていることかもしれません。自分の家をもっている。台風が来てもびくともしない家を持っている。しかしちょっとしたことで崩れてしまう家庭が多いのです。ハウスの中でホームレスが起こる。
今、在宅勤務をしている方が増えました。本来ならば、家に家族が揃うことは嬉しいことです。しかし、喜べない状況もあるようです。そこが彼らのホームになっていないからかもしれません。
私の学生の頃からブームになった一つに「癒し」という言葉があります。食べ物でも音楽でも、なんでも「癒し」と書いてあれば飛ぶように売れる。これが人間にもつけられて「癒し系」と呼ばれて、その人の価値を高めています。なぜブームになるのか……。皆疲れているからでしょう。休めていないからでしょう。完璧でない自分を受け止めてくれる場所、魂の安住する場所が失われている。健やかなときは良かったかもしれません。でも、病むとき、役に立たない存在だと思い知らされたとき、それでも自分を喜んで受け止めてくれる場所、自分を求めてくれる関係。それを失ったとき、「魂の故郷喪失状態」という状況が起こるのかもしれません。
今日主イエスが語られたたとえ話を聞きました。このたとえに出てくる息子はホームを失っていきます。そのきっかけは財産をもらって父から離れていくことに始まります。なぜ離れたのか……。きっと自由を求めたのだと思います。彼は自分らしくありたかった。自分のやりたいように生きたかった。彼は探しの道にでかけた。本来の自分らしさを求めて家を出た。けれども、彼は自由を求めて不自由になります。自分を求めて自分を失います。自己探求の道は自己喪失の道となりました。
彼はどこに出かけたのか。後で豚が登場します。ユダヤ人は豚を食べません。つまり、彼はユダヤ人がいない場所に行ったのです。もっと分かりやすく言えば、神を信じない世界に行ったのです。つまり、彼は神を信じない世界で、神無しで生きていこうとしたのです。そうできると思わせたものが、財産です。
この失われた息子の物語でいつでも思い出すものに、私が出席している東村山教会の教会学校の子どもたちが書いた絵があります。ある夏のキャンプで子どもたちに失われた息子の絵を場面ごとに描いてもらったことがあった。その中で放蕩の限りを尽くすところの絵が非常に面白かった。小学生たちが「放蕩の限りを尽くす」ことをイメージしたのです。そこでは金髪のアフロヘアーの男がサングラスをかけて、エルビスプレスリーのようなカッコをしながら、広い道路の真ん中で片手を空に高く上げたかっこいいポーズを決めて、無敵のような勝ち誇った姿で描かれていた。一直性に通る道路の周りには高い近代的なビルディングが軒並み並んでいて、看板に大きく「ゲームセンター」と書いてある。その絵の中でとっても面白かったのは、その現代の街中に、その男の人一人しかいないのです。歓楽街であるにもかかわらずその男以外誰もいない。一見すると、その人はその楽しい街を支配しているかのように右手を挙げている。けれども、他方で言うと、この人は一人であった。子どもたちは放蕩息子を容易に描けたけれども、その仲間を一人として思い描けなかったのです。本当の意味で彼の傍らに立つ者は一人もいなかった。もちろん、お金で作った友達はいたかもしれませんが、お金と共にその友人は消えて行った。
この人は孤独だった。恐らく感じたでしょう。自分なんか本当はいてもいなくてもどっちでもいい存在なんじゃないか。いやむしろ自分なんかいない方がみんなにとって都合がいいのではないか。自分でも自分に対してそう思わされたのではないか。不安だったに違いない。本当は一人であることが明らかにされることを恐れていたに違いない。その思いを紛らわすかのようにして物質的な豊かさで心を埋めていったのではないか。孤独の中で、彼は自分と一緒に生きてくれる者の愛に飢えていった。
状況が悪くなり、そんな折に自然災害が起こり、本当に助けが必要な時、その場所は助けてくれる人を見いだせない社会でした。そこにホームはありませんでした。その場所がホームではなかったことを思い知らされた瞬間がありました。それが、豚の食べる食べ物が欲しいと思ったときです。「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べものをくれる人は誰もいなかった」。彼は人間として生きることを止めようとしていました。動物的本能で生きざるを得ない世界でした。彼は神無しで生きていこうとする世界で、神も自分も見失っていくのです。
ホームはどこにあるのでしょうか。皆さんのホームはどこにあるのでしょうか。実家でしょうか?確かに、地方から出てきた学生が疲れてくると「実家に帰ります」とよく言います。夫婦の中でも、妻は疲れたら実家に帰ります。では家がホームでしょうか。そう言えることは幸せなことです。しかし、サラリーマン川柳は歌います。「「出社日は 次はいつなの?」 妻の圧」。「会社へは 来るなと上司 行けと妻」。「自宅でも 嫁との会話 画面越し」。「どこにある ステイホームで 俺の場所」。思い当たるような、無いような……。あなたの人生のホームはどこにありますか。
その事がよく分かる話が、この失われた息子の前に主がなされた失われた銀貨の話にあります。10枚の銀貨の内、無くした一枚を必死に探す話です。この一枚の銀貨は実はそれほど大きな額ではありません。けれども、一人の女性が必死に探す。パレスチナの地方では、結婚の時に10枚の銀貨をつなげて頭に飾るそうです。それは嫁入りのときの飾りであり、思い出があり、大切な宝であるそうです。あの地方で嫁に行くというのは、両親から離れて、もう二度と一緒には暮らせないということです。そのときに両親から贈られた品です。それは、その人にとってのホームの思い出です。その10枚で一つの一枚が無くなり、それを探していたのでしょう。恐らく、捜している間に、他のもっと綺麗な銀貨を見つけることもあったかもしれません。けれども、それではだめなのです。あの両親がくれた銀貨でなければだめなのです。無くした銀貨でなければならないのです。
随分前にこの言葉の意味がよくわかる経験をしました。私の娘が、引っ越した親友にもらった鉛筆を探していることがありました。一緒に探して、色々な鉛筆を見つけるのですが、違うと言うのです。最後に「あった」といってそれを見つけて喜ぶのです。見つけた鉛筆を見ると、先ほど私が見つけた鉛筆と同じ種類の鉛筆なのです。でも娘は違うと言うのです。娘には違いが分かるのです。それでなければならないのです。友人との熱い絆を持つ娘には、友人からもらった鉛筆と他の鉛筆の違いが分かるのです。
みなさん聖書をお持ちでしょう。聖書はどれも同じです。でも人にとっては思い出の聖書であるはずです。たとえば、洗礼を受けたときにもらった聖書。恩師からもらった聖書。両親から譲り受けた聖書。ほかの人はどれを見ても同じかもしれません。変わらないだろうと思うかもしれない。でも、分かる人には分かるのです。思い入れが強い人がいるほど、違いが分かるのです。
私どもも同じです。神はあなたでなければならないと言われるのです。あなたの代わりはいないと言われるのです。あなたを探す神がおられるのです。心の内では色々なつぶやきがあります。私よりも、あの人のほうがいいんじゃないかなって。こんなに汚れて、こんなに傷があって、真っ黒になって、むしろあの人の方が無垢で輝いていて、あの人の方が素晴らしいのにと思うかもしれない。けれども、神はあなたでないといけないと言われるのです。その傷ついたあなたが、汚れたあなたが良いのだと言われるのです。他でもないあなたを必要とする神がおられるのです。
ホーム、それは自分の命を確認できる場所です。ホーム、それは自分の存在を肯定されていることを確認できる場所です。ホーム、それは、その場所に行けば、自分が自分で良いのだということを確かめる関係のある存在を思い起こせる場所です。自分を求めている存在がいることを確信できる場所がある。そこでなら休むことができる。愛されていることがよく分かり、どんな自分をも受け止めてくれる存在に身を委ねられるとき、人は本当の意味で休めるのだと思います。なぜならば、そんな自分を自分がようやく受け止められるからです。
この息子は、我に返ってホームに帰ります。ホームとは父なる神がおられるところです。どんな時でも、役に立たなくても、過ちを犯してしまっても、ずっとあなたと一緒にいてくれる存在がおられるところです。聖書は、あなたを愛する神がおられるところ、そこにあなたのホームがあるという。魂の故郷です。
野球にはホームベースがあります。基盤、ベースとなるホームである。そこから始まり、そこへと帰ってくる場所です。ホームベースがなければ、野球は始まらない。人生も同じかもしれません……。子供達は、塁がなくても、ホームベースがあれば遊べます。私たちの人生も同じでしょう。人生を生きることができる。
われわれの人生のホームベースはどこにあるのか。聖書は、あなたを愛する神がおられるところ、そこにあなたのホームがあるという。
人生において、神がわからないと思うときもあるでありましょう。色々と人生の道を探し、判断に迷いながら生きて、また時に失敗を犯して、恥ずかしいようなことにもなって、場合によっては礼拝からも遠のいてしまうことだって起こるかもしれない。そんな時、自分は教会から遠い、信仰から遠いと思わざるを得なくなります。そういう悩みを抱えておられる信仰の仲間だっているのです。しかし幸いなことに、そこで主イエスが語っておられるのは、それでもあなたが帰ることを待っているお方がここにおられるということです。それでもあなたの傍らに立ち続けることを喜ばれる神が生きておられる。あなたは一人じゃない。主が共におられる。その喜びの歌が聞こえてくるところ、そこに教会がある。そこにあなたのまことの家族がいる。そこに私どもの終の住家がある。ここであなたはあなたらしく生きられる。あの人もこの人も神とともに生きている。私もあなたも神の御手の中で、今を生きているし、その愛の御手の中で安心して死を迎えることができる。こんな素晴らしいことはないね。あなたも帰っておいで。一緒に生きよう。主イエスは何とかしてこのことをお伝えになりたくて、譬え話をされたのです。帰っておいで、ホームへ!
今、様々な仕方でこの言葉を聞いている方々の中で、まだ洗礼を受けておられない方がおられるならば、私は心から願う。洗礼を受けていただきたい。あなたのホームに帰ってきていただきたい。ここにあなたの本当のホームベースがあるからです。大丈夫、大丈夫。主イエスがホームランを打ってくださった。あなたがすることは一つだけです。ホームベースに帰って、仲間と一緒に喜ぶことです。
お祈りしましょう。
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